「ラッキードッグ1」ショートストーリー
『BitterSweet Symposium』
2015.04.01~
その年、アメリカ東海岸といくつもの都市、そしてデイバン市を包んで窒息させていた暗い冬は、しぶとかった。例年より早く訪れ、そして3月の声を聞いてもたじろぐ気配を見せない寒波と、汚れた琥珀のように積もり固まった雪は、しぶとかった。
ラジオではコマーシャルのように異常気象というフレーズを繰り返していた。街を行き交う人々も、車も、鉄道も、そして路肩のみぞを流れる汚水にも、凍りついた雪と同じ灰色の汚れが芯まで染み付いているようで――上がる気配のない気温、そして晴れ渡ることのない空の暗さに、デイバンの人々はいつもの年の3月のそれよりも暗い、鬱屈とした不安にしがみつかれていた。
そんな3月――
そんな、3月も半ばを過ぎようとしていた、その日。
――デイバンに、東海岸に。雨が、ふった。
「よォ。いらっしゃ~い、待ってたぜ赤毛のあしながおじさん」
「カッツォ、懐かしいネタだ。……すまない、遅くなったぜ。やっぱり俺が最後か」
「なんの。ジュリオはさっき来たとこ。ベルナルドはまだなんか電話してっし」
19世紀に建てられた、野太い樫材で造られたその店の間口とドア。そこをくぐって現れた背の高い男から、雨に濡れていたシックなコートを受け取った男は……。
「イヴァンはなんか殺されそーなツラしてカウンターでグラス磨いてるわん。まー、ま。あっちで座っててくれや」
その金髪の男は、くだけた英語とイタリア語のちゃんぽんで、笑うように言う。
腰から下だけ、ピシっとした凛々しいコンプレートのズボンと靴。そのズボンから上は粋な仕立てのシャツを袖まくりしてしまっている、その男――暗い電灯とろうそくの仄明かりの中でも、目にしたとたんにハッとするような金髪をばさりと流した、その男。
彼は、最後にやってきた仲間の一人、そして彼の可愛い部下であるルキーノ・グレゴレッティをしつらえてあるテーブルの方に進めさせ、しっとり濡れているルキーノのレインコートを暖炉の脇にあるハンガーへと運ぶ。
「……ン。冷てえ、かと思ったら。なんだー」
爪の間から凍みるような雨の冷たさを予感していた男の手指は、そのコートを濡らしていた水滴の感触に、きょとんとしたように視線を彷徨わせ。そして、にやり。
「ハハッ、そっかー。やっとかよちくしょうめ」
笑う。その金髪の男は――
東海岸の若きル・オモ。ジャンカルロ・デルモンテ。
このデイバン・シティ、アメリカ東海岸の港湾都市であるデイバンに巣食う悪逆非道のイタリア・マフィアであるCR:5。その組織の二代目ボスであり、今日はこの店に可愛い部下の幹部たち全員を集めてねぎらおうと目論んでいるマフィアのカポ。それが彼。
そう――ラッキードッグ・ジャンカルロは、今宵、上機嫌だった。
◇ ◇
もう3月も半ばだというのに――
その日は、朝からスモッグと同じ色をしたぼた雪が降っていた。
3月の日差しをさえぎり、空気を冷蔵庫に溜まる汚水のように冷たく濁らせる、雪。デイバンの街のそこかしこにこびりつく永久凍土のような残雪に加勢する、雪。道路の渋滞を酷くし、街に暮らす人々の空を見上げる気力さえ萎えさせる、雪。しぶとい冬の嘲罵。
春がどこかに行ってしまったような凍みつく暗い日をデイバンが包む。
そう、デイバンに住む市民が、そしてヤクザもちんぴらも、金持ちも貧乏人も、皆が感じて気落ちしていた、その日――その、午後。
時計がランチタイムの終わりをさすころ、雪は降り止み、そして――
デイバンに、東海岸に雨が、降った。
2ヶ月ぶりの、雪ではない、凍っていない水滴の雨だった。
「おっしゃ。全員、そろったし」
俺は――可愛い幹部たちが四人、全員がほぼ定刻通りに“ココ”にそろったこと。そして普段なら気が塞ぐはずの冷たい雨が、春っていうお寝坊なレディを連れてきた予感とか、その他いろいろの要素でテンションが上がっていた。
その俺、ここに集まったイケメンどものボスである俺、ラッキードッグ・ジャンカルロは、雨の残滓で濡れている店のドアに――この店『ビアンカネーヴェ』の、超でかいハーシーズの板チョコのような樫材の扉をしっかり閉める。そして念のため、今日の貸し切りに気づいていない常連客さんがうっかり顔を出したりしないように、これもでかい真鍮の錠前をがっちり下ろす。
――さて。
俺は、少し濡れた手を前掛けエプロンでごしごしやって、その手を払う。
ぱんぱん、というその音に、テーブルについていたジュリオがおすわりさせられていたデキル犬みたいにぴくと耳と目だけを動かし、嬉しそうに見えない尻尾をパサパサ振っていた。
分厚い松の板材で作られたその年代物のテーブルの上には、これも年代物の、東洋のサクラの花の色を織り込んだという灰色のテーブルクロス。そこには、きっちり五人分の座席が――上座がひとつ、それを囲むように、四つの同じ仕切りの席。その一つにかしこまっているジュリオに俺は、
「さて。おー、ジュリオ。そっち、まだツマむもん残ってる?」
「えっ、と……はい。大丈夫、です。ありがとうございます、ジャンさん」
ジュリオは、まだ中身が残っているアマレットの色に染まったグラスにそっと触れながら、俺の方にイケてる美男子のメンを向けて嬉しそうにはにかんでいた。
ただ一人、テーブルについていたジュリオ。そのとなりに、手洗いの鏡でスーツとシャツを直してきた伊達男、ルキーノが深く、息を吐きながら腰を下ろした。
「ジュリオ、何を飲んで……ああ、それか。いいな、俺ももらおうか」
ルキーノは懐のタバコを探った手を止め、代わりに、ふと野の花でも見たような目と指をテーブルにしつらえてあったシガーケースに伸ばす。
「この天気だ、道連れのタバコは湿気ってるからな。ありがたい」
「おうよ。今日のタバコはベルナルドのおごりだぜ。全滅させちまえ」
俺の言葉に、それはそれは、と肩をすくめた伊達男の前に、俺はサイドテーブルに準備してあった食前酒のグラスをひとつ、置いてやる。そこに角ばった瓶からムラートの少女の肌のような透明感のある褐色の酒を注いでやる。
「グラツィエ。いい香りだ――ついでに火をおねだりしても? 我らがカポ?」
「うむ。今日は空気読まずにネーチャン呼ぶ以外のサービスは全部、ロッハーゆえ」
いい顔で笑い、細いシガーをセクシーな口にくわえたルキーノに俺はポケットから出したロンソンで火をつけてやる。ジリ、とシガーが燃え、フカリ、ルキーノが一口ふかすと……空気の中に、アマレットのほろ苦いミルクのような甘美な香り、そしてオイルの燃える橙色の匂いが踊る。そこに、南国の日差しが音楽とセットで広がったようなタバコの芳香がふんわり広がっていた。
「カーヴォロ。早くも最高の気分だ」
「……ジャンさんも、少し、休まれますか?」
「んー。いんや、メンツそろったからな。まずは、ぱぱっと乾杯しちまおう。まずは――ジュリオんち秘蔵のシャンパンを一本、さくっと殺しちゃおうねえ」
「……ええ。ありがとうございます、では――」
ジュリオは、少し照れたような笑みで頷くと、その目をちらとカウンター席の方に向ける。
「――イヴァン、ジャンさんが先に乾杯だそうだ。グラスの支度を、頼む」
そのジュリオの静かな声に、
「聞こえてるっツーの……! クソ、いま話しかけんな! 手元が……ファック」
こちらは、分厚い樫の一枚板で作られたカウンター、その奥から――キラキラのボトルと磨かれた真鍮のドラフトタワーが飾るカウンターの向こう、どうやらその向こう側でしゃがみ込んでいるらしきイヴァンが、汗のにじむような声でうなる。
「……。よっしゃあ、これだ。――あった、これだ……!」
「ん? なにをしとるのかね、イヴァンくん」
「うっせ! なんてたって……とっておきを出すんだ、ハハッ」
カウンターの向こうから、シャツの袖を粋にまくりあげてバンドで止め、バーテンダー風味のスタイルになったイヴァンの胸像が現れる。俺は、そっちを指のピストルでハジいて、
「おー。なんか、自信たっぷりだねえ。いいねえいいねえ。んじゃ、あ」
俺は、シガーを楽しんでそれを陶器の灰皿で消したルキーノを指でチェック、アマレットのグラスの縁を指で撫でていたジュリオも、チェック。そして――ぐるんと首を回し、奥の方にあるカーテンで仕切られた部屋、電話と非常口のあるほうに声で、チェック。
「うぉーい。ベルナルドあんちゃーん。そっちは、どうよ?」
俺の声に――二秒後くらいにカーテンの隙間が揺れて、そこから見覚えのあるコンプレートの袖口と、これもよく見知った指輪をはめた、大きな手指が現れ――ちょっと待った、というふうにその手が動いて引っ込むと、
「――ちょっと待て。……ああ、すまないジャン。もう少しで、報告が終わりそうなんだが、ちょっと立て込んでる、な……あちらは」
カーテンの向こうから、受話器の口を塞いだらしきベルナルドの声が聞こえてきた。
俺は、見えない相手におサルのように歯を見せて笑い、軽口ひとつ。
「なんの。俺たちのオフを耳揃えて支度してくれたダーリンのためですもの。アチシ、いつまでも待ってるワ」
「部下冥利に尽きるよ。それはそうと……追加の5セントを何枚かくれないか。次は向こうからかけさせるから」
その言葉と一緒に、カーテンの合間からベルナルドの手が伸びてくる。
「やっぱりカネ目当て。男なんてみんなそう、フケツ。シャボン玉。もう別れまショ」
俺は何度か使った覚えのある軽口といっしょに、そのベルナルドの手にチャラリとひとつまみの5セント玉と、よく冷えたスタウトの瓶を置いてやる。その予想していなかった冷たさにベルナルドの手がピクとしたのが楽しかった。
「待ってくれ誤解だよ……っと。――何でもない。メモの用意はいいな、俺が言ったことは後でタイプして、ザネリの班にもコピーを……」
何か返しをひねろうとして、そして仕事モードでそれをあきらめたベルナルドの手と声がカーテンの向こうに消える。
「さて……」
――メンバーは、そろった。いつもの、俺の、俺たちの仲間。
最近じゃ東海岸連合のヤクザたちの席順の中でも、こっちが座る前に立って敬礼してくれる相手の数が多くなってきたウチの組、CR:5。その組織の屋台骨である幹部たちと、そのデキルマフィアたちを束ねる……って言うと未だにぺっこり自信がないこの俺、カポであるジャンカルロは――
このダウンタウンの古き好き店ビアンカネーヴェを貸し切りにして、かなり久々のオフ、それもメンツ全員が揃ったオフをこれから楽しもうとしていた。
「……いい雨だねえ」
俺は、鎧戸の隙間から見える雨に濡れたガラス、そのむこうでほの暗い夜景の灯りをゆらゆら踊らせている雨のしずくに眼を細め――また、笑う。
◇ ◇
その日の雨は、冬のあいだデイバンを倦ませていた雪混じりのそれではなく、日が暮れてもなお雪に変わることなく思い水滴で夜を叩き続けていた。
暗闇の中、永久凍土のようになって街を、道路を凍みさせていた薄氷と残雪がじわじわと溶かされ、ただの汚れになってどぶや運河に流れてゆく。世界にこびりついていたひと冬分の汚穢と凍土が、終わりのない無数の滴の一粒ひとつぶに砕かれ、消え。
雨が洗った夜闇の中に、つい数刻前とは別の冷たさが降り注いでいた。
雨を防げる屋根や、雨具と帽子に守られているなら――
この凍てつくように感じる雨の中で、口を開けて息をし――舌で、空気を舐めてみたくなる。その新鮮な甘味のある、季節最初の空気を感じてみたくなる。
そんな、冬の終わりの雨の夜。
その夜――
日付が変わろうとする頃。真夜中の、デイバン。
前世紀から街並みと景色が変わらない、と言われているダウンタウンのその一角からはほとんど明かりも消え、走る車と鉄道の音も絶えていた。
しんとした古い街並みの夜に、仄明かりの並ぶ暗闇の中に雨の音だけが降り注ぐ。
夕方から宵の口までは、大通りに並ぶ売店や食堂、飲み屋からはにぎやかな活気と、いくつもの言葉が混じった笑いや罵声、歓声が溢れていたその通りも、今は静まり返り雨の中に沈んでいた。人々が溢れていた頃合いには、料理や煙の匂い、目に染みる石炭の煙、トマトやにんにくが絡んだ脂の香りや暖められたスパイス入りのビールの芳香が混ざり合っていたその通りの空気も、いまは闇の中で雨に洗われて冷え、暗く冷たく透き通る。
そんな通りの奥――
レンガ造りの古い建物が並ぶ区画の角に、一軒のこれも古いパブが立っていた。
一世紀の風雪に耐えた木材が半ば溶けかけたレンガとモルタルと一緒になって組み上がった、屈強な老人のようにがっしりした3階建ての古い、パブ。
その店は、大きな扉に『休業』の札を出したまま、店を閉めてしまっていた。
が……店の中、これも古い小ぶりなガラスを並べた窓からは、暖かでほの暗い灯りと、歓談する男たちの気配が漏れてきていた。
その店は――ビアンカネーヴェは、今宵、貸し切りだった。
そして俺は――