「ラッキードッグ1」ショートストーリー
『BitterSweet Symposium』
2015.04.01~
◇ ◇
デイバンのコーサ・ノストラ、CR:5。
古くはトスカニーニ一家とも呼ばれていたその組織の重鎮であり、長老会のメンバーでもある老アンセルモ・ヴェスプッチ氏は上機嫌だった。
「――うむ。雨も夜のうちに上がって、よく晴れたわい」
ヴェスプッチ老人は、アーリントンの墓碑のように綺麗に揃った白い歯で、ミント風味の鹿の軟骨を噛んで満足そうにうなずき、
「この車で雨とか最悪だからな。幌なんぞ出しても錆びる場所が増えるだけだ」
デート前のティーンのような息を吐いた老人は、オープンカーの操縦席で笑った。
「さて――」
そろそろ正午になろうとする春の太陽が、初夏のそれのような、恋を知った少年のような輝きでデイバンを照らし、暖める。昨夜の雨が洗い流した街並みと空からは、冬の足あとのようなスモッグも煤塵も消えていて――西から吹く涼しい風は、甘味すら感じさせるほどに爽やかで。
その、美しい一瞬を謳歌する世界の中、
「やはり雨上がりの道路はゴキゲンだな。タイヤが童貞坊主のようによく噛むわい」
16バルブ4気筒、総排気量4.4リッターの過給器付きレシプロエンジンは春の空気でガソリンを燃やしながら潤沢なトルクを出力し、ベントレー社の巨大なスポーツカーを流れる水のように走らせていた。冷機運転も兼ねた、その緩やかな操縦で深緑の巨体はデイバンのダウンタウンを進み、航空ゴーグルをかけた老人の顔を愉快そうにほころばせる。
「さて。あの坊主ども、行儀よくしとるだろうな。まあイヴァンもおるし――」
ベントレーのオープンカーは、ダウンタウンの山の手、ゆるやかな坂道とカーブを楽しみながら走り――丸太のように屈強な老人の腕と足は、ワルツのそれのようにハンドルとペダルを操って。
「あいつらもいい歳だからな。そんなに飲まんだろうし、もう起きてるか」
見た目よりは静かで深いエンジンの音が、『ビアンカネーヴェ』の前で止まった。
「――なんだ。おまえらまだおったのか、窓も閉まって……」
分厚い樫材の扉を開き、ビアンカネーヴェの主は店の中に入った。
一呼吸、沈黙の後。
「……。…………。……うおおおおおおおお!!」
ヴェスプッチの口から、恐怖しているような驚愕の声が、漏れた。
「なんじゃあ、この……! ありさまは……!?」
わなわな震える、老人の鉤爪のようになった手。そして目。
「あの阿呆ども、どんだけ宴会しおったんだ……」
彼が、ヴェスプッチ老が、先立たれた妻の次くらいに大事にしていたこの店、ビアンカネーヴェのホール。その大テーブルの上には……散乱一歩手前の状態で、役目を果たした食器、皿、器、グラス、そして皿、また皿、皿……ストレッチャーの上にはオーブンの鉄板、ボウル、酒を冷やすバケツ、グラス、グラス……そして吸い殻がたまった灰皿、ナプキンにフォーク、果物の皮、シーフードの殻、殻……。
「あンの外道坊主ども。なーにが、ちょっち軽い飲みするだけにゃしい、だ、カッツォ」
嵐のような食欲が通り過ぎていったあっぱれな惨状が、テーブルの上とその周囲に残されていた。その無数と言ってよい皿はどれもソースの汚れを残すのみで、ほとんど食べ残しもなく――乾いた酒がかすかに匂うグラスと空き瓶にも、ほとんど液体は残らず、養豚場の豚が一言クレームを付けたくなるほどに、料理はきれいに食べつくされていた。
「つーか、5人、だよな。まさか、部下たちも連れてきたのか」
そうヴェスプッチが首を傾げるほどの、食欲の痕跡だった。
「つーか。あの阿呆どもは……ジャンカルロは――」
くらわしてやらねばならン、然るべき小言を。
ヴェスプッチは鋲を打った飛行靴で床板を踏み、自分の店の中を進む。
その彼に、
「……? ――おー。おかえりじっちゃん、早かったねえ」
店の奥、厨房の方からコロコロ転がすような愉快な声。そして、ひょいと真夏のひまわりよりも金色な髪が揺れて、見知った顔がのぞく。
「ありがとねえ、昨日の晩はマンキツしたよう。――冷水飲むけ?」
「サティスファクションってレベルじゃねーぞ。――馬鹿もん、氷入れてよこせ」
厨房から現れたジャンカルロは、すっかりくつろいだスタイルで――靴とコンプレートのスラックスはそのまま、上は何かのプリントされたTシャツ1枚、夏場の労務者のように首にタオルをかけ、シャツを汗で湿らせ――彼は、フルーツを盛るグラスにアイスウォーターをなみなみ揺らせてそれを老人に捧げる。
「あー。ゆんべは、飲んだ飲んだ。久々に鼻から出るまで食ったわー」
「おかしいなあ。わしは、軽い飲み、って聞いとったんだがなー。というか、サマンサが出てくる前に片付けんと。あの婆さんにフライにして食われるぞ、わしら」
「うに。もうちょいしたら、あいつら起こしてめし食わせて。それからやるよ」
「なんだ、あの阿呆ども寝とるのか」
ごんごんと盛大な音を鳴らして水を飲んだ老人は、グラスをジャンに返し。また、あの嵐の後を苦い顔で見る。
「ボーイスカウトの中隊がキャンプしたのかと思ったぞ。どんだけ腹ペコだったんだ、おまえら」
「いやあ、久々だったしねえ。酒もうまかったんで、ごはんがすすむことすすむこと」
ジャンカルロは、カウンターの方に踵を鳴らして進むと、エスプレッソマシンに電源と熱が入っているのをちら見し、
「酒はちっとのみすぎたなあ。昨日はひさびさに寝落ちしたよ」
「よかったなあ」
苦い顔で言った老人は、ぐるり店の中を見、
「それで、あの坊主どもは……あの有り様か」
店の壁際にあるソファ、そして低いテーブル席のカウチを見たヴェスプッチが、息子のテストの答案用紙を見たときの顔で言った。
「まったく、若いもんには見せられんな。この店でやって正解か」
「そーそー。ほんと、恩に着るよじっちゃん。お墓参りは毎年行ったげるね」
「やかましい。この貸しは高いからな、覚えとけ」
ソファの上には、もこっとした毛布の山が。
「………………」
そこからは、長めのベルナルドの髪が覗いて――微動だにしない。
「………………」
カウチにはルキーノが大統領の石像のように座り――脚に毛布をかけられ、こちらも目を閉じたままゆるやかな寝息を繰り返していた。
「………………」
ジュリオは、蓄音機の置かれた席にある、ゆったりした背もたれの椅子に腰を掛け、そこで瞑想するようにして目を閉じ――だが、丸めた毛布を足の間にはさみ、それを抱くような姿勢で眠っていた。
「………………」
イヴァンは、カウンターの一番奥、常連が来た時にヴェスプッチが座るアームチェアに深く沈んで――イビキもかかないほど深く、熟睡していた。
「……まったく。まあ、あいつらも疲れておったんだろうが。というか、寝るなら上の客間で寝ればよかろうに。まあツインルームの五人使用になるがな」
「あー、ごめん。そこは俺が使って爆睡しました。おかげで、ひっさびさによく眠れてさー。さっきもバチッと目が覚めました。生きるってスバラシイですネ」
高圧のスチームの音に、鼻腔の奥がくすぐられるようなコーヒーの香りが混じって広がる。ちんまいカップにエスプレッソを注いだジャンカルロが、それをカウンターにすべらせた。ヴェスプッチは、それに埋め立てでもするように角砂糖を入れ、適当に混ぜる。
「ぬかせ。さっきわしが電話したとき寝ぼけまくってたくせに。カヴァッリとわしを間違えるとか縁起でもない」
「だったっけ。いやー、寝たなあ」
ジャンカルロは、んーっっと頭上に伸ばした両手を組んで二足歩行する猫のように伸びをする。その、まだ贅肉がついてない初心者中年のTシャツ姿に、ヴェスプッチはやれやれと肩をすくめコーヒーをすする。
「と言うか、何だそのシャツは。ガキじゃあるまいし。なんだ、熱的死、って」
「ん? ああ、ウィアードの懸賞おくったら当たったの。こっちでよかったわ、おっぱい見えそうなチャンネーがプリントされたやつだったら人前で着られなかったわ」
「それだってたいして変わらん」
まあまあ、とジャンカルロは手のひらを立てて老人をなだめ、そして。
「そういやじっちゃんのほうは、昨日どうだったん? お楽しみ?」
おう、と老人は答えると――コーヒーを舐め、満足そうに笑う。
「むこうの縄張りのコースでチギってやったわい。デュフフ。ドイツ車でわしに喧嘩を売るとか百年早いわ」
「相手って古い友達でしょ。いいの、たまにはハナ譲らなくて?」
「相手は親友だぞ、手を抜くとかありえんだろ常識で考えろ。まあ、新車出るたびに買ってるような道楽者のあいつじゃ何を持ってきても無駄だがな! ハンドルの舵角で曲がっているうちはわしには勝てんよ」
「ア、ソウ」
「何だその顔は。つーか、こっちが留守にしとるあいだに、この外道どもは好き放題しおって。しかも昼前まで寝こけるとか。フリーダムすぎるだろ」
「まあまあ。――……あいつらもさあ」
ジャンカルロは、ちらと厨房の奥を見、
「昨夜はちょっと飲み過ぎたみたいでさ。電話部屋でネオチしたり、トイレから戻らなかったりしてさ。二階で寢るけ?ッて聞いたんだけど。どいつも、ここでいいっていうもんだからご覧の有様です」
何かの火の具合を気にして、愉快そうに言った。
「もうチョットしたら起こして、めし食わせて。と。昼過ぎには、本部に戻らねえとだしねえ。あー、一週間くらいボンヤリして過ごしたいなむ」
「そんなもん年食ってからしろ。それはそうと……お、おおお」
「じっちゃん、これ食うけ? ゆんべ、シメでみんなで食って少し残しといたんだ」
カウンターの上を滑ってきた、ガラスの器。ジャンカルロが冷蔵庫から出したそのフルーツの小皿に、ヴェスプッチの顔が彼の嫌いな虫を見た時のようにしかめられた。
「いやあ、さすがじっちゃんの店。このサクランボ、ちょううめえ」
「あったりまえだ。おまえ、これ一粒いくらすると……」
皿の上には――
軸を付けたままの、一粒ごと四角い化粧紙で包まれたチェリーが、そういう細工物のように鮮やかなピンク色をした丸い果実がちょこんと並んでいた。
「この野郎。こいつは週末の会合で出そうと冷やしといたのに。食うなよ、絶対食うなよとイヴァンにキツく言っておいたんだが。あの野郎」
「え、そうだったの。ごめーん。いやあ、でもまじ美味いよねこれ」
ジャンカルロは老人を拝んで謝り、そして紙包みをひとつとって、指と歯でそれを裂いて中身の鮮やかなピンクを舌に転がす。
「わざわざジャポーネから木を輸入した逸品だ。そのへんの、漬物にするような安物とはモノが違う」
ふーん、とジャンカルロはもごもごしながら鼻を鳴らし、そして、
「……ぷ。お~、今日も絶好調。じっちゃん見れ見れ」
「おまえ。ガキじゃないんだからそういうのはやめろ。まったく」
ジャンカルロは、な、と開けた口からチェリーのそれが染まったような色の舌を尖らせ――その先端には、クリスマス飾りのように丸められたサクランボの軸が王冠になってはまっていた。
「あー、思い出した。ゆうべ、みんなでこれ食ってる時にこれやって見せたら大ウケでさあ。そっからみんなでワイ談しますた」
「知らんがな。それより……この匂い、奥でなんか煮てるのか」
「あ、うん」
ジャンカルロは、ぷ、と口の中のものを灰皿に落とし、
「朝めし、こさえてたんだわ。二日酔い定食さ」
また厨房をちら見し、時間をたしかめてジャンカルロはニッと笑う。
「コメがあったんで、昨日のうちに洗って乾かしておいたんだ。小一時間煮たから、たぶんいいかんじにホロホロのお粥になってるべさ」
「米の粥か。波止場の苦力じゃあるまいし」
「ミルクとスープストックもちょっともらったよ。あっさり味で、ちょいオリーブ油たらして。そこにツナ缶と、きざんだレタスで。黒胡椒をおこのみでドバドバふるとウマイゾ」
「……。まあいい、どうせ鍋いっぱい煮ただろ。わしにも一杯よこせ」
「イグザクトリー。オッケ、じゃ、連中起こすわ。たっぷりお小言お願いします」
ジャンカルロは片目を閉じて笑うと、
「……ふ。ふぁあああ。まだなんか眠ぃ」
また、立ち上がった猫のように両の腕を伸ばし、涙がにじむほどぎゅっと目を閉じて大きなあくびをした。
-END-