「ラッキードッグ1」ショートストーリー
『BitterSweet Symposium』
2015.04.01~
◇ ◇
「ベルナルド、そっち、あとどんくらいだ?」
俺の声に、電話部屋のカーテンの隙間からベルナルドの手が無言で生える。その手指がピースサインを作り、ちょっとして、中指がピコピコと折れ曲がる。
「オッケ。ニッケルも足りるな。じゃあこっち、準備しちまうど」
俺は、グッと親指を立てたベルナルドの手をこっちの手のピストルでハジき、次の弾丸でくるり、背後のテーブルを狙う。そこには……。
「おー。おー、おお。いいねえいいね、イヴァン、やるねえ」
「フン……! ああクソ、めんどくせえ」
イヴァンは、自分の席の椅子の背もたれに手をついて立ち――何か照れたような、そして自信たっぷりのお顔でテーブルの上を見おろしていた。
そこには……。
見たことはないけど、ジャポーネの粋な年増はきっとこんなだと思える桃灰色のテーブルクロスの上には、イヴァンが直々に並べたこの店の備品が……ビアンカネーヴェのお宝、あのベスプッチのじじいもめったに出さない宝石のような小皿とグラス、そしてマジモンの銀の色をした食器が純白のナプキンをベッドにして並んでいた。
「うおー。本部の食堂、っつーかホテルでもこんなの見たことねえわ」
「あったりめーだ。なんてたって、あの因業爺の秘蔵だからなあ。……ま、ハハッ。こりゃアレだ、まだ前座ってやつだがな!」
イヴァンは昔の女の数を自慢する大学生みたいな若々しいおツラで、笑う。俺はそれをスルーする優しさを見せつつ、テーブルの脇、店のサービスワゴンに乗せていた前菜のオツマミの器にとりかかる。
「やっべー。なんかコーフンしちゃったよボク。こんなピッカピカに俺の手料理盛るとか、うわー、なんか。ちんちん勃ちそう。ちょうひさびさ」
「……カッツォ、アホか。まあ、たしかに――」
別のワゴンに、カッツォをお吐きになったルキーノが煙草入れと灰皿を下げる。その彼の眼と指が、銀と何かの絵模様の飾りで縁取られた小皿をそうっと愛撫し、
「うん。マイセンの……ウィーン風、18世紀かな、こいつは。さすがヴェスプッチ殿だ。……どれ」
「ンモー。そういう目つきと指使いはレディ相手にやれってばよ、エロすぎるわ」
ルキーノの指が、そうっと白磁の皿をつまみ、ひっくり返して――チップ全部賭けたバカラゲームの札を絞った時よりもいい顔をして、伊達男がニヤリと犬歯を見せる。
「どうだ、カウンター。全部当たりだろ?」
「そうなのかー」
気のない俺の返事に、ルキーノは満足気なカッツォをつぶやき皿を戻す。そこに、
「ああ、そうだよ! だから! わかってるな!? さっきも言ったが、絶対落っことすなよ!? 傷つけんなよ! あとでシメられんの俺なんだからな!」
カウンターとテーブルを往復していたイヴァンが、緊張で汗に濡れた顔でルキーノに噛み付いていた。俺は、まあまあ、と無責任な言動で、
「さあ。イヴァンがあのじじいに“うむ、お前たちなら……いいよ……”って言わせたお宝に、俺なんかのお手製料理、盛るぜー超盛るぜえ」
「てめえ! じじいのマネきもい! ちょっと似てるのがムカつく! 死ね! てか、頼むぜホント!?」
俺は、イナフの合図で指を振って――
「わかってるって。じゃあイヴァン、カンパイ用のグラスとか持って来ちゃってくれや」
ワゴンに乗せてあったボウルをとって、きれいな木で造られたトングで中身を。
「さあて。食うど。飲むどー」
俺が前菜、普段の飲みや食事の時のそれより、若干重ためで脂分多め、おっさん成分マシマシの料理を、素敵な皿に盛ってゆく、と。
「……。あ、それ――俺、それ、いえ、それも大好きです。肉の……」
「ン。ボイルした肉か? いきなり重たいジャブ打ってきたな、ジャン」
皿に何か魔法でもかかっていたのか、俺の雑把料理がくるんと盛られたとたんに、その前菜から俺が狙っていた通りの香りが揺れて、ジュリオと、ルキーノの顔が動いていた。
俺が人数分の料理を盛って、ウム、と満足に頷くと、グラスを持ってきたイヴァンもスンと鼻を鳴らして歯を見せる。
「フン、いい匂いさせてんじゃねえか。クソ、腹が鳴りそうだ」
「ありがとちゃん。あー、こン中にローストポーク苦手なの、なんていうお上品なやつはいねえよな? ン、よろしい」
俺は全員の無言の肯定に包まれながら、今日の昼から仕込んでいた飲みのメシ、その一品目と二品目をいっしょの皿に盛ってゆく。
「おいおい。肉とサラダをいっしょの器に盛りやがったな。なんて蛮勇だ」
「まかせろ。お肉のオツユをドレッシング代わりにして食うとウマイぞ」
俺は五つの皿を満タンにして――我ながらうまくいったそのひと皿目の出来栄えにアヒルの口をする。
「へえ、これローストポークかよ。手間かけやがったな」
「そうでもないぜ。豚のさ、やっすいバラ肉のブロックを炙ってー。お湯の中にドボンして火ィとおしてー。脂が抜けてきたらひっぱりあげてー。冷ましながらナイフで薄ーく削いでだね。リボンみたいなのを山ほど作って、そこに塩やら酢やらコショウやらカラシやら。あとキャラウェイがあったんでそれもぶっこんで、こうモミモミと」
俺が脂まみれになって洗うのに難儀していた手をワキワキさせると、男たちの口元がツバを沸かせて動いたのが、見えた。
「んで、そこにきざんだリーキまぶして出来上がり。サラダの方は何も考えずにレタスとチコリちぎって混ぜただけ。つーかこの季節でもレタスあってビビるわ最近は」
「南米の方から船で運んでくるらしいぜ。文明バンザイだ」
「NYの連合が仕切っている、フロリダやキューバのシノギ、ですね。我々の仕切りのコロンビアからでは、さすがに生野菜は……。飛行機を使えば何とかなりますが――」
「ワオ。それレタスがいっこ5ドルとかしちゃうぜ。奥様バッタリだ」
「……飛行機が進歩すれば、あるいは事業として可能に――いえ、すみません……」
俺は自爆してしょぼんとしたジュリオに、イナフの指を振って、
「飛行機いいねえ。そういやダグラスの新型がそろそろ出まわるってまえ~に聞いたんだが。あー」
俺は、その情報の出元が誰かを思い出し、そいつの名前を呼ぶ。
「をーい。ベルナルド、そっちはどんなかんじ?」
俺の声に、電話部屋のカーテンが割れて――ぐっと親指を立てたベルナルドの手が、出た。
「あいよ。んじゃ、サケあけちまおう。ルキーノ頼む」
「まかせろ。最初に赤毛のお寝坊なレディを起こすとするか」
ルキーノは、彼の後ろにあったワゴンから編み籠のベッドに寝かされていた古めかしいワインのボトルを引き抜き――ナイフですっぱり錫の封を切り飛ばす。
「プレーゴ。さすが俺だ。喜べジャン、コイツは大当たりだ」
「コルクも抜いてないのに自信たっぷりだな。ステキ」
「いい女は電話のハローを聞くだけでわかる、だろ。同じだ」
「ハハッ、こきやがる。……クソッ、いつになったらヒマが出来るんだようちの組はよ!? いい加減にしねえとマジで女遊びのやり方忘れちまうぜ、ファック」
「――……。いや、なんでもない」
「てめえ! 今のそういう達観したようなため息が一番ムカツクんだよガチ童貞が!」
「まーまー。今日の夜がオフに出来ただけでもいいじゃねーか。それによー、オンナ縁が枯れちゃってるのはここにいる全員がそうですし。ガックシ」
「ファック……! これじゃアレッサンドロ親父のこともう笑えねえぞ……」
「あー。それなら問題ない。あのエロガッパのセカンド童貞ライフ歴の長さは俺たちの歳より長いって、カポしんじてる」
「親父も、あれだけ遊んでいるのに――」
ルキーノがヤレヤレ口調で呟きながら、それでも手はそういう機械のように間違いなく動いて古めかしい赤ワインのコルクをドリルで犯してゆく。
「――そういえば、浮き名を流したウワサも現場も、さっぱりだな。……よく考えたら変な話だとは思わん、か? ……よし、いい子だ」
キュポ、とヘソの下がくすぐったくなるいい音がしてルキーノはワインの栓を抜き――ドリルに刺さったままのコルクを、じつにいい顔でスンとお嗅ぎになる。
「ハローがセクシーな女は、キスも甘い。……親父は、アレッサンドロ顧問は――まあ、確かに子の俺たちからみても、少……いや、まあアレなところもあるが」
「先代のことをアレ、とかいいましたよこのライオン」
「イヴァン、デキャンタをとってくれ。――グラツィエ。……あれでも、親父は間違いなくコーサ・ノストラの中では、いまだに俺たち全員束になってもかなわない大物、本物の男、ル・オモだ」
親父を賞賛したルキーノの言葉に、ジュリオが何か言いたそうな顔をしたが――これも、実にいい音、そして例える言葉がパッと出てこないほどいい色をした薄紅色のワインがガラスのデキャンタへと注がれる光景に俺の意識は引っ張られ……ジュリオも、小さく息を吐く。
「本気か打算かは置いておくとしても、だ。その親父に、先代カポに媚びを売る女は田舎の牛乳にたかるハエよりもたくさんいたはずなんだ。だが……あの人が、そこらの女と朝のコーヒーを飲んでいる光景は、少なくとも俺は見たことがない」
「そういえば俺も親父がオンナとどこぞのネンゴロってのは聞いたことねえ」
「……あの人は俺たちが思っているよりも、ずっと理知的で、狡猾だ。おそらく――」
「いやー、それはどうかしら。あの反政府ゴリラがモテねえのは、イイトコロでエロッ気が丸出しになってネーチャンに逃げられてるだけだと思うなあ、俺」
「そうかもしれん。だが……――カッツォ、やめよう。いくらなんでも失礼な話題だったな、すまん。……それより」
ゆっくりと、しごくゆっくりと――鋼鉄のように微動だにしない腕で古びたボトルの中身をデキャンタしたルキーノが、ワインの流れとシンクロしていた言葉を切った。同時に、澱を含んでいた残りのワインがボトルの中に角度で幽閉される。
「どうだ。パーフェクトだろ。部屋が温まってるからな、早めにいっちまおう」
「デキャンタージュ、だったっけか。お高いサケはむずかしいねえ」
「――もう香りが立っている。澱だけ抜いたのならもう……始めましょう、ジャンさん」
「待てジュリオ、あと……そう、もう10分は要るぞ」
「ふむ。じゃ、寝ている姫にキスしてポリス呼ばれるのは白馬の王子様にお任せしとくかー」
「……わかりました。では――そうだ、ジャンさん、先に俺の」
「ンん? おい、あの眼鏡、なにしてやがんだ? 電話終わったんじゃなかったのかよ」
「そういえば。俺ちょっと見て……」
話の腰をマッチ棒みたいに折られたジュリオが、イヴァンの方を濡れた石みたいな目で見ていた。俺は、まあまあ、とハンドサイン。そしてケツを椅子から浮かせ……。
そこに――
「……。すまない。最後の最後でアレッサンドロ顧問とちょうどつながってね」
電話部屋のカーテンが揺れて、そこから空になったビールの瓶をふたつ、ベルみたいに握っているベルナルドの手が出た。その空き瓶が、カコっと音を立て――その後ろから、ぬるりとベルナルドの長身と長い髪、そして隠す気もない上機嫌の顔。メガネの下でいいかんじに細くなっている目が、現れた。
「おー。あのゴリラ、この時間にホテルに戻ってたのか。……あっ」
俺が何かを察していると、言わなくてもいいぞ、というルキーノの視線が俺を捉え、再び宝石色の酒が起き抜けの目をこすっているデキャンタに向けられる。
「つか電話長えよ。おめーが長電話だと嫌な予感しかしねえんだクソ」
「――問題は、もうないんだな?」
なんか喉が渇いて少し不機嫌そうなイヴァンとジュリオに、ベルナルドはニヤッと口を大きな線にして笑い、そして俺の方にすまなさそうな目を向けた。
「あちらは問題ない。完璧だ。……待たせてすまない、少し手と顔を洗ってくる。すぐ戻るよ」
「おう。そうすりゃちょうどワインちゃんもお年ごろだべさ」
ベルナルドは空の瓶を床に置くと、カウンターの奥手にある化粧室(この店で手洗いとか便所とか言うとヴェスプッチのじじいに小一時間くらう)へと――
「クソ、あのこっぱげ。もう先に飲んじまおうぜ」
「そんなつれないこと言うなよー。今日のオフをまとめてくれたのはあいつだし。なんかポカがあって、今から本部に戻るとかそんな話になったらよー」
俺はワゴンから、見よう見まねでつくったチャイナタウン風の揚げパンが山盛りのバスケットをどんとテーブルの上に座らせ、
「今日の昼からここでちまちまめしとツマミ作ってたかわいそうなカポがべそかくぜ。ハハハ、っと。なあルキーノ、そっちのワインはそろそろ背伸びしてるころあいけ?」
「……いや、あと5分、だな。まだベッドから出たくないとぐずってる」
「――ボルドーだろう、それは。澱だけ分ければもういいはずだ」
「あー。めんどくせえなワインはよう! おう、そういやジュリオ、さっき何かいってなかったか、お前」
「……」
ジュリオは、一瞬だけハッとしたように輪郭をブレさせ、すごく何か言いたそうな目でイヴァンを見――そして、これも一瞬で飼い主の車の音を聞きつけた犬みたいな顔になった。
「そ、そうでした、ジャンさん。そちらのクラレットはまだ……面倒、そうですから」
「うん」
「その、俺の……家の蔵から出してきたモエ・エ・シャンドンが冷やしてありますから、それで先に乾杯しませんか」
「モエー? 雰囲気でおフランスの酒ってことぐらいしかワカンねけど。ほー。ジュリオんちの秘蔵か。すげえ、カヴァッリ爺ちゃんハンカチ噛みそう」
「あ……その、すみません、いわゆるただのシャンパン、です、そんなたいした――」
ご主人からクッキーもらって大喜びで食べてたら、うっかり歯が指にあたっちゃったときの犬みたいな顔にジュリオが、なる。その隙に、ジュリオが手をのばそうとしていたワゴン、その敷布の下の銀のバケツで冷やされていたボトルにイヴァンの手と、ルキーノの目がスケベそうに伸びていた。
「ん? うっわ、なんじゃこの年代物の瓶はよ? 墓荒しでもしたのかよ、ジュリオ」
「……。そんなことろかも、な。あの男が置き捨てていったものだから――」
「ヒュー。こいつは俺の負けだな。年代物のシャンパンを出されちまった」
「――ラベルは冷やした時に剥がれてしまったが……銘柄は、あんたなら開ければわかるだろ」
「フム。偉大なる修道士に天の国の栄光を。さて、自慢してもらおうか」
「んまー。イケメンが二人して、俺の考えたかっこいいセリフメモ帳読んでるわ。やめてよ、惚れてまうやん。俺のために争わないで」
「ブッ……あ、アホか、ファンクーロ」
「す、すみません、とにかく……ベルナルドが戻ったら、これ、先に開けましょう」
ジュリオはイヴァンのハレンチ行為からボトルを奪還――銀のバケツの冷水の中から、古びて年代と埃がそこかしこに積もっているが美しいボトルを引き上げる。海から上がった南洋の黒ちゃん美少女のように濡れた黒い瓶を、純白のトーションで包んだジュリオは、ちらと洗面台のほうを、そして――テーブルの上の、ワインを待ちぼうけしているグラスを見る。
「イヴァン。すまないが――シャンパンのグラスを」
「はあ? ……オ。っと。クソッ、気付かなかった。すまねえ、まってろ」
バーテンダー姿が板についてきたイヴァンがまた、カウンターの後ろへ。そして見えない何処かでカチャカチャとガラスの鈴がなる音をさせてから、ふと。
「……ファック、こうなりゃヤケだ、やっちまうか!」
「なんだ、イヴァン。ついに、俺たちにとっておきのシャンパンを出す気になったか?」
「ちげえええ!よボケ! ……あった、これだ……! フゥ……!」
「初コキしたときのエロ本でも出てきたのけ? そう言うの興奮するよな、俺も混ぜれ」
「うっせえええ!死ね! ……つか、しゃべんな! 気が散る、ミスったら死ぬ……」
俺たちの軽口とは別に――何やら、ピンの抜けた手榴弾でもつかんだようなイヴァンの声がひびき、それにやけに重々しい木箱の動く音が乗っかり。
「よし……! なあ、そっちのワゴンの上、あけてくれ!」
何かの古めかしい木箱を持ったイヴァンがカウンターから出てくるのと――
「すまない、主役でもないのに遅くなったよ、ジャン」
洗顔し、おそらく髪にクシを入れて服も直してきたらしき、シャンとしたコンプレート姿の筆頭幹部殿が、ベルナルドが化粧室の方から現れる。
「おう、お疲れちゃん待ってたぜ。まーまー、座ってくれ。飲むべ食うべ」
俺の声に――
デキルマフィアスタイルの部下、筆頭幹部のベルナルドが、百年の時間とホコリと酔っ払いを受け止めて磨かれてきた分厚い樫材の床を進み、そしてふと足を止め……これも、百年のもろもろが染み込んだ壁に身を寄せ、
「また髪の話してる」
わずかにとろんとした、いい感じの生酔い顔で意味不明なことを仰る。
「いや全然」
「してねえよハゲ、さっさと座れ邪魔だっつの」
「――酔ってるのかベルナルド」
「それはもう全員だろ。食前酒の舐めすぎで虫歯になりそうだ」
「すまん。ああ、しかし……気分がいいな」
長い髪をかるくかき、眼鏡の下の目で笑ったベルナルドは上着を脱ぎ、それを粋に片手に引っ掛ける。そして、謎の箱を抱えたイヴァンを、そういう闘牛士のように先に通してからベルナルドはテーブルへ。
「円卓のヤクザがそろいましたネ、んじゃあ」
さっきから料理を運んだり、厨房でちまちま肉を切ったりサラダを刻んだり、ガスの火の具合をみたり。こまごまとおさんどんをして煤けた手を拭いた俺は――このメンツの中で、一番それっぽっくないスタイルの俺は、だがこの円卓の上座の席に、どかっと座る。
「ベルナルド、席はそこなー。んで、あっちの様子はどうだったい?」
俺の声に、ベルナルドは少し行儀悪くテーブルに手など付き、
「……問題なし。さ。ジャン。それどころか首尾は上々、素晴らしい」
彼が上機嫌の時によくやる仕草で――前髪を、つるんと指で後ろにくしけずりながら――さっきのビール2本と多幸感でゆるんだ目で俺を見、報告する。
「さすがだ、ジャン。ラッキードッグは此処に知ろしめし、なべてうちはこともなし」
「うほ、ゴキゲンだなベルナルド。じゃあ……俺らが留守の本部も、カヴァッリ爺さまも、お役所の方も――」
「ああ。すべて、神の六日目までのように順調だよ。最後にアレッサンドロ顧問とも話ができて、言うことなし、さ」
「長え電話だったな。モメてんじゃねえかと思ったぜ」
「俺もだ。昔っから、ベルナルドの電話が長いとこっちのケツの座りが悪くなる」
「――顧問……カヴァッリ殿はご健勝だったか」
「ああ。電話で話して、色々お叱りを頂戴したよ」
「おお、いいねえいいねえ」
「NYの空気と新しい屋敷も、いい刺激になったようで――そうそう。イヴァンに今度、礼を言いたいそうだ」
「……フン。ハハ、いらねえって。どうせ十倍のお小言がついてくるに決まってるぜ」
「そう言うな。顧問がお元気な証拠だと思って、ありがたく頂戴しておいてくれよ」
ベルナルドが、上着を椅子の背などにファサリとかけ(実に無礼講風でたいへんよろしい)腰を下ろすと、例の木箱を開けたイヴァンが口笛吹くような声で言う。
「ハハッ、こいつだ。――おう、乾杯はシャンパンだろ? セン抜いちまえよ」
「専用のグラスか。……すまない、な、イヴァン」
ジュリオの方は、少しモグモグしたような声。だがその礼に、イヴァンはくすぐったそうに、
「べ、べつに貸しにするとかじゃねえよ。この店でよ、シャンパンをワインの風船玉なんかに注いで乾杯したのがあの因業爺にバレてみろ、何言われることかクソ」
「なるほど。ヴェスプッチ殿の、次のお宝が登場か」
「あー。そういや、シャンパンはなんか専用のグラスだったねえ。あんだけパーティーで飲まされたのに、ころっとすっこ抜けてたわ」
「仕方ないよ、ジャン。どうも、シャンパンと聞くと苦行を連想してしまうからね。辛い商売だ」
「そそ。あー、仕事とおべっか、胃の痛い展開抜きのシャンパン!か! なんか盛り上がってまいりましたよ!」
ジャポーネのボン・サンのようにパンと手を打って合わせた俺に、ジュリオは少女が夢に見るような爽やかスマイルを浮かべ――例の、年代物のボトルの封を切る。錫とろうで固められていた銀の針金が解かれた瓶の首、石のようになったコルクにトーションが巻かれ、ジュリオが俺に目配せすると。
PON!!
「おおおー」
誰ともなく、もしかすると全員の口から言語になってない声が漏れる。もはや聞き慣れた、発泡性のワインの封印が説かれた音。だが……その後に続く、無機質な拍手、割れるような拍手、もなく。乾杯の音頭もなく。下品な笑いやおべっか、ドブの中で割れたガラス瓶のようなヒソヒソもなく。
ただ……。
「やっべ。やばい。……んなー、ジュリオ。これ、やばくね? セン抜けただけで、なんか匂いというか、空気が、この」
「……よかったです、傷んではいませんでした。やはりジャンさんの幸運は――」
「ブラーヴォ。やはりあれか。当たったな」
「おいおいジュリオ、ひどいぞ。あとで出す俺のとっておきがかすむじゃないか」
「ハハッ、ジジイのお宝出したんだからな。がっかりさせんなよ」
全員がなかば動揺したかのように言葉を混ぜあう中で――イヴァンは、例の木箱、そこからニトログリセリンでも扱うかのようにして――細身のグラスを取り出し、シルクでくるりと拭いて皆の前に並べてゆく。
「おお。なんか。なんだろ。よくワカンネけど、なんかイイもんのニオイが」
「こいつも年代モノだな。……まてよ、なにか見覚えが――」
「フルートグラスか。ソーサーじゃないんだな」
「フン、泡の立つシャンパンを平ぺったいのに入れたらすぐ香りが飛ぶじゃねーか。んなもん、パーティーでペンギンどものゲロに混ぜる酒くらいにしか使わねえよ」
「……。すまない、少しイヴァンを見なおしたかもしれない」
「がーっ! しれない、じゃなくて見なおせよ!」
「じゃあ、はじめましょう。……あ、ジャンさんは三番目に注ぎます――中身の、安定したところを……はい」
「いや聞けよ! このガチ童貞! ……おい最初は俺かクソ」
連続して現れたレアなお宝のオーラに飲まれ、俺たちは動揺から挙動不審のレベルになってざわついていた。
「さっきからやべえ。何だこのグラス、こりゃやばい。……うおー、昔、カヴァッリ爺ちゃんの、ガチモンのブレゲ預けられたときみてえだ、この……感じ。うわー。鳥肌浮いた、みて、ココ。見れ見れ」
「……は、はい。……。すて、キ、ですね、ジャンさん」
「……。まずい、俺まで口笛吹きそうになったぜ。イヴァン、これは?」
「ジャン、腕をこっちにも。見せてくれ。フフ、うん――うん。ああ、これは。バカラだな。どうだ、そうだろう」
「なにドヤ顔してんだタコメガネ。……フン、ハハ。さすがにわかるか」
額に緊張の汗をにじませていたイヴァンが笑う。そして、ジュリオに手で合図し、
「室から出したばっかだからグラスも冷えてら。匂いも拭った。サ、さっきのいいぜ。ジュリオやってくれ」
イヴァンに言われ――ジュリオが、片方の手のひらでスイと空気を切って、濡れた黒いボトルをそういう武器のように捧げ持つ。
「……ヴェスプッチ殿の、とっておきか。いい、んだな。使っても」
「もう出しちまったよボケ。あとで俺が自分で洗ってしまう。扱いはいちおう習ったからな……だから。お前ら、間違っても落とすなよ、な。な?」
顔に汗を浮かべているイヴァン、その彼の前に――ジュリオが酒を、注ぐ。
空気と静けさの中に、可愛らしいプチプチ爆ぜる音と液体の渦巻きが……そして、目に見えない甘い爆発のような香りが、女神様が歩くくらいのスピードで広がってゆく。
「ひょー。いいニオイ。あかん、アタマが馬鹿になって言葉が出ねえ、ヤバイ、しかでねえ」
「こちらも同じ。宝石の中に、宝石が……」
「いやあ、きれいねえ。これ。なあ、このグラスそんなにすげえのかベルナルド? いや、スゲエのはわかるけど」
「ああ。有名なバカラの製品で……その中でも天井、どこかの王宮にでも収められるようなしろものだぞ、これは。しかも年代モノだ、この線……いまのバカラじゃあ、ない」
「さすが、長老会の重鎮の持ち物だ、な。これに指紋と口をつけると思うだけで勃ってくるぜえ、ハハ、カーヴォロ」
ベルナルドも、興奮で酔いが半分飛んで饒舌になっていた。先ほど、ベルナルドに正解を取られたルキーノが、優雅な敗北者になって手指を組んで――まさに宝石、な、シンプルだが素晴らしい意匠のシャンパングラスに泡立つ美酒が注がれてゆくのを眺めていた。
「……うっわ! なにこれ!? 時間たったらニオイ変わってきたし!」
「あ……。は、はい、ありがとうございます。家の、地下から出してきて……」
俺の言葉に、首から上だけは恋を知った少年のようなはにかみを浮かべ――それでも不動の身体と手で、ジュリオは五つのグラスに、そういう機械のように泡立つ不安定な酒をきっちりと注いでゆく。ああ、この香り! ああ、この色!
「……黒帯の年代物か。おいおい、いいのかジュリオ?」
「気にするな。……去年はまた、ジャンさんの誕生日を正式に祝えなかった、その……代わりには、どんなものでもたとえ――」
急に、沈んだ声になってジュリオは低く言い、そしてボトルを冷水の中に戻す。
「気にすんなって、ジュリオ。ハハ、ありゃなんつーか毎年のこっちゃねーか。それに去年のは……上出来な方だったろ、まだ?」
「……は、はい、ありがとうございます、ジャンさん。……では、その」
「おう。じゃあ、このサイコーちゃんでカンパイすっか。すべえすべえ」
「素晴らしいね。ジャン。年代物のシャンパン、それを素晴らしいグラスでお前と乾杯できるなんて。何かを使い尽くすようで、あとが怖いよ」
「まったくだ。ジュリオもイヴァンも意地が悪いぜ、こんな隠し球を」
「大したものじゃない。こいつは、あの男が残していったものだ、から価値など……」
「まーまー。じゃ、ご老人の遺産セットをありがたくいただくとしよーかね」
「まだあの因業爺のほうは死んでねーだろ。……てか、まじで今、帰ってくるなよジジイ……」
俺は席を立ち――高揚して饒舌になっている可愛い部下たちに、いっこづつ、ひんやりした黄金色のグラスを手渡していってから席に戻り――最後の一つを、掲げ持つ。
「それでは諸君。えー……何に乾杯すべっかね。悩むわ」
「それはいーから、あんまり勢い良くぶつけんなよ、そっとだぞ、そーっと」
「……ジャンさんのご健康に――」
「組織と、コーサ・ノストラへはこの席じゃ野暮天だな」
「ここは我らがカポにすべておまかせを」
俺は、コトバをいくつか探したあとで。
「まあ、いい! この……サイコーに! 最高だぜお前ら! 乾杯!」
――乾杯!!
最初はサルート、と全員が合わせ――その後は、砕けてサルー、チンチン、そこに思いつく限りの言葉の乾杯が、トースト! ちぇりお! カンペイ! 全員の口から並ぶ。
「……Kan-pai!! うっわ、音までいいぜこの酒、いやグラス?」
カチン、と――深海の奥底から響いてきた、透き通ったため息めいたグラスの音が五つ、共鳴して消える。俺が感嘆の声を漏らし、そして片目を薄く閉じてグラスを掲げ、それに口をつけると……ひとコマずれた映画のように、四人の男たちも酒盃を挙げ、傾ける。
「…………」
俺は、イッたときのようにアタマの中を真っ白にされたまま――気づけば、一度はおろそうとしたグラスの中身を、次のひと息で干してしまっていた。
「ッ、ッぅう~! 痛ってぇえ、てか違、そんくらいうめえええ。え……」
チョイと飲むつもりが……唇と、舌と、歯と口と。鼻と。そして喉を静かな火のように洗って流れていった甘味と酸の泡、そして香り。こいつは止まらなかった。
甘味を美しさに、香りを音色に誤認させるような、そんな冷たさが流れこんでくる。口の中に、どんなインクよりも強く染みこみ、どんな清水よりも爽やかに洗って、消える。その酒は、泡よりも小さな粒子へとはじけて消えたようで、それでいてひとつの生き物か炎のように唇から下、喉から胃へとつながってつかまれているようで――
ただ――
「…………」
言葉が、出ない。なにか言ったら、この感覚を壊してしまいそうで。
そしてそれは、四人とも同じだったようで。
あるいは俺の真似をしてくれたようで、全員がシャンパンをひと息で、干す。
そして、
「――ブラヴォー。俺はもう絶望しないよ」
「……エッチェレンテ。上には上、か」
「……やべえ。ハラの底で花が咲いてやがる」
「……ん。えと、サイコー、の、ジャンさんに――」
四人の幹部たち、各々が思うままの感嘆を5月の果樹園が香る息とともに吐く。
「いやあ。ンめえ、すげえ。ハァあ~。……ああン、イッキしちまってもうねえや」
「ありがとうございます、ジャンさん」
さわやか極まる笑みを浮かべたジュリオが、銀のバケツからまたあの奇跡のボトルをとって――全員のグラスに、一発というか五発できっちりと残りの酒を均等に注いで、その香りと光景で大の男たちをでろでろにする。
「あー。このままこのグラス、ケースに入れて本部の部屋に飾っときたいわー。……ん。」
「どうした、ジャン?」
「いや、今気づいた。このグラス、なんか模様が掘ってあるかと思ったら……これ、花だよなあ。なんか、まあるいマーガレットみたいな? あと……なんかの枝みたいな」
「ああ、たしかに。めずらしいな、この時代のバカラが」
「あーそれか。たしか、なぁ」
もう満腹してしまったようなお顔と声のイヴァンが、タバコを探そうとして――途中でその愚挙に気づいて、その手で透明な黄金色のグラスを摘む。
「ヴェスプッチのじじいが昔、ごたく並べてやがったぜ。……そうそう。ジャポーネだ。たしか東洋の王様のために作ったオーダーとかふかしてたっけな」
「すげー。サムライキングのエムブレム! あの因業じじい未来に生きてるなご愁傷様」
「ジャポーネの王族モデルだと? なんでそんなものがここにあるんだ」
「俺に聞かれてもしらねえよ! あのジジイがそうやって――」
「……ジャポーネはキングじゃなくて皇帝、エンペラーだ。……待て、たしか――」
「フハハ。悪いなジュリオ、また頂きだ。思い出したよ、ジャン。聞いたことがある」
ベルナルドは自信たっぷりにテーブルの上に両の肘をつき、手指など組んで目の前に注がたシャンパンに勝利の笑みをステアしていた。
「そう。たしかジャポーネのプリンスがパリに来た時に、バカラが記念モデルを作ったんだ。おそらく、それじゃないかと思う。さすが長老会だよ」
「おお、なんかよくわからんがとにかくすげえ! そりゃあ落っことしたらエライコッチャだわ。というわけで諸君――」
俺は、そのお宝グラスを乾杯の位置に掲げ、
「爺さんたちのステキな遺産に乾杯すっか」
「いや、だからまだ死んでねえピンピンしてるわクソ」
「ア、ソウ。ま、いいや、じゃあ……」
俺はもう一度、グラスを掲げる。
「コイツも何かの縁だ。――ジャポーネのサムライとレディたちに、乾杯」
俺の言葉に、野郎どもは小さく頷いたり、ニコリしたり。そして身を乗り出して二回目の乾杯を――そして、あの液化した宝石に唇を寄せる。
「…………。……ッ~~~」
今度は……ひと息、こらえることが出来た。感動的だった。だが抵抗は無意味だった。
「……。まいったな。この先、パーティーの乾杯でどんな顔をすればいいんだ」
「……カッツォ。これだからガチの金持ちってやつは。降参だ」
「……はぁああ。おい、ジュリオ。その空き瓶置いといてくれよ、あとでいいわけに使うからよ」
「うおー。まじステキ。酔った、っていうかトロケちゃったよう俺。あー、いまものすごく、このグラスの中ペロペロしたいです」
「よかった、です、ジャンさんが喜んで、もらって、その……」
目を細めて俺を見つめ、夢見るようなほほ笑みを浮かべていたジュリオが……ふと、
「あ…………」
俺が、空っぽになったグラスの内側に舌か指でも突っ込みそうなツラなのに気づいたジュリオは――急に、投げられた大好物のゴムボールが運河のドブに落っこちてしまった時の犬そっくりになって、
「……すみ、ません――もっと、持って……ある分全部、持って来るべきでした……。責任――」
「いやいや。いろいろしまえ。ジュリオ、ステイ。まーまー、まあまあ」
俺は目の前の空気を手のひらで整地して……ジュリオ以外、たった二杯の酒で人生全て許せるようなご尊顔になってる部下たちを見て、唇を舐める。
「ああいうイイもんは足りないくらいでちょうどいいやね」
「……すみません……せめてもうあと――」
「そうだ。いいこと思いついた。今度のアレ飲みたくなったらジュリオんちに泊まって酒蔵荒らせばいいんじゃね。そうするサ」
「……。……! は、はい! ありがとうございます。では家のものにその支度を――」
運河に迷い込んだいたずらイルカが落っこちてたゴムボールを返してくれた犬そっくりになったジュリオが、なにやら未定を予定に、それを確定にするのを俺はやさしく放置して、
「おっし。乾杯終わり。つーわけで……」
俺はエンブレムグラスをスイと奥に滑らせ、出番待ちしていたワイン用のグラスの口を指で撫でる。
「飲むぜー超のむぜ。もう後はいつもどおりいこうや。ヘイ、ルキーノ」
「待ってたぜ。たぶんベストタイミングだ」
今度はルキーノが椅子からケツを浮かせ、今まですっかり忘れられていた朱の酒の器をセクシーな野太い手指でつかんでみせる。
「今度は俺が自慢させてもらう。ハハハ、クリスティーヌを引っ張りだすメグの気分だぜ」
「残念ながらこのステージにはびしょ濡れのイケメンはいないけどね」
「ウフーフ。悪党とファントムしかいね舞台へようこそ。ブラー~~~ヴィア」
もう、何年も昔のことのような気がする――
俺は懐かしい、あのステージの巻き毛の悪魔のセリフをリフレインさせながら――俺も席を立ち、ワゴンからパンとナイフのトレイをセットする。
「懐かしすぎて泣けてきたちくしょめ。あー、またなんか汗出てきた。未だに思い出すとじわっと来るわ」
「懐かしいね、ジャン。俺は思い出すと胃が熱くなるよ、色々と」
「懐かしいって、たったの、一昨年の話じゃないか」
「あんときはマジでハゲるかと思ったぜクソ。よくもまあ上手く行ったもんだ」
「ジャンさんのおかげ、だ。――昨日のことのように、覚えています……」
「いやあ、懐かしいわあ。じゃあルキーノ、たっぷりやってくれ」
ルキーノが、まず自分のグラスにたらりとデキャンタの赤色をたらし――それをくるり、色と香り、粘りやら何やら見て、そして完全に満足した顔でその中身を俺のグラスに注いでくれる。
「おお。おおお。いいね、いいねえ。さっきのとは違うけど……おー、なんだこれ。いい匂いがしてきましたよコレ奥さん」
「古いボトルなんで少し気をもんだが……。大丈夫だ、問題ない。……だろ?」
ルキーノの声に、その酒を注がれた全員が無言でうなずき、濃厚な香りが広がってゆくこの空間に身を浸していた。俺は、パンをさくりさくりと薄切り。今度はくつろぎモードに入っていたイヴァンが、オ、と声を上げて席を立ち、店の奥でゆったりと燃えていた暖炉に薪を数本食わせてからまた戻ってくる。
「熱いめしはしばらく出ねえんだろ、ジャン? あとでもうちっとくべておくか」
「サンキュ。オーブンに熾き火もらうかもしんねえから頼むわー」
イヴァンの食わせた薪が暖炉で火に舐められ、パチっとはぜながら楡の木のほんのり辛い温かさを漂わせてくる。
その中で、俺たちは朱の酒を(定量より多めに)注がれたグラスを掲げ、
「まーとにかく、カンパイ。出してあるツマミもガンガンやってくれ」
俺の声を合図に、野郎どもはグラスを掲げ……そして俺がそれを舐めるのを待って、男たちは完全にセットされた舞台の赤いワインを唇と、口と、鼻と、喉と、胃に。
「……うん。うんまい。おいしい、おいしいよルッキーニ」
「カポの目に涙まで浮かべて頂いて光栄の極み。苦労したかいがあったぜ」
「……まずいな。ますます俺の持ち込みが出しづらくなったじゃないか、この外道め」
「おいおい。こいつ……あのジジイに自慢されたどれよりもいい感じだぜ、おい」
「――さすがロスチャイルド。クラレットの女王か」
「なるほどにゃあ。ボロを着たコーラスガールかと思ってたらプリマドンナが食われたというやつですねわかりますん。……あーうめえ、うめえ、けど――」
気づくと、俺のグラスはつるんとカラになって透き通ったピンク色に染まっていた。そこに、自信たっぷりのルキーノの腕とキャラフェがまたタップリと。
「……あ。あー、あー。なんか思い出すとおもった。あれだ、ボストンのアレよ、あのおっかねえ、ほら。ヴェルサーチの」
「……思い出してしまったよ。また胃がキュッと来た」
「やめてくれよ、ジャン。ファンクーロ、ボルドーに訴えられるぞ」
ベルナルドとルキーノがグラスに複雑な視線を投げる。数秒遅れて、ボストンの女傑のことを思い出したイヴァンが、オレンジをうっかり嗅いでしまった野良猫の顔になって、
「ファック、酔いが冷めたじゃねえか。……あの毒蠍に鉄道の件で来月あたりにカツアゲされるの思い出したぜクソ。えげつねーんだあの大年増よう」
ぐいっとワイングラスを干して――肉体労働のあとのビール二十杯分くらいの満足の唸りを吐く。俺もそれに釣られて、高い旨酒を、ぐびり。
「いやあ、おつかれちゃんですイヴァン。すまんねえ、俺があすこに出向くと話が面倒になるからにゃあ」
「東海岸で物流のシノギをするときはボストンは避けて通れないからな。俺も、あの女傑はどうにも苦手だ。イヴァン、おまえもそろそろ前髪の心配を始めようか」
「うっせえこっぱげ! ああクソ、ハラ減ってきた」
「おうじゃんじゃん食ってくれ。まだたったの一皿目、パンも切りたてで悪い女の子が踏んでも地獄までもたねえ。靴とドレスが泥まみれ不可避よ」
「あの組も、亭主のほうが出てくるとハナシが楽なんだがなあ。しかし、だ――あの毒蛇がわざわざカネの話に出ばってくるということは。イヴァン、おまえ何かしたか? 目をつけられてるぞ、こいつは」
「――あの家はまだジャンさんを狙っているはずだ。イヴァンに爪を伸ばす理由がわからないな。少し探ってみるか」
「知らねえよクソ! なあジャン、そのパンもう一枚よこせ。この肉挟んで食う!」
「その発想はなかった。じゃんじゃん行こう」
俺はフカフカ切ったパンを、各自の前にまた追加――そして身を乗り出していた俺のケツが椅子に戻る頃には、野郎どもの欲望はグラスから皿の上に向いていた。
「すまない、ジャン。俺の電話が長引いたんで……予定より、料理が待ちぼうけ食らってさめてしまったかい、これは?」
ベルナルドが、彼には少々荷の重そうな肉の皿を見ながら言う。俺はそれに、両手の指でテーブルの上にコンマをいくつも打ちながら、
「イナフだ。野郎どうしのしまりのねえ呑みになるのはわかってたからな」
気にするな、の合図で、素手で自分の皿から肉を一切れ摘んで口に放り込む。
……うむ。狙い通りの味と舌触りがつるんと口を滑って胃袋におちてゆく。
「今日のお料理は、皿の上で小一時間忘れられても煙草の灰が飛んでも気にならねえようなタフな奴らばかりをこさえたからな。ぐだぐだ、ぐでんぐでんにいこうぜ」
「そりゃ荒っぽくて頼もしいな。どれ、今日の酒はサビニ人の乙女のごとく扱われるわけか」
「レイプから始まる恋ってやつですよ奥さん。さあて。食おう食おう。こいつはまだボウルに半分あるし、ほかのメシも順番待ちしてるぜー」
「ありがとうございます、ジャンさん。俺、これ、好きです。ボウル全部でもいけそうです」
「やれやれ、ボルドーに肉、はいいんだが。こんな脂たっぷりのバラ肉と来たか。こいつは冒険だぞ。フランス人に見られないようにしないとな」
ジュリオとルキーノが感嘆、そして戸惑いの言葉を漏らしつつも――俺がセットしておいた、フォークとナイフならぬ食器を摘んで――今度はふたりとも戸惑いを見せる。
「コイツはなんだ? 木の楊枝……違うな」
「竹、で作ったフォーク、ですね」
「あたり。まえーに、NYのチャイナタウンで見っけて買いだめしておいたんだわ。使い捨てだから、バンバン使っていいぜ」
俺が隠し球のひとつ――タケの串の先端を割って、そこに別のタケを挟んで作ったフォークを摘んで野郎どもに見せると、イヴァンがチッと気分良さそうに舌を鳴らす。
「なるほどな。気が利くじゃねえか、ジャン。なるほどこれなら――」
「じじいのお宝にナイフで傷がつくとあとが怖いべ。まかせろよ」
「なるほど。さすがじじいころがしのジャンカルロだな。どれ」
ルキーノはそのフォークで、冷えた脂とグレービーが絡んでゼリー寄せのようになった肉を刺し、大きな口でもさり、一口。数度アゴが動くと、ひと呼吸後に笑い混じりの吐息が出た。
「こいつは……オッティモだ。そこらの屋台のおやじがハンカチ噛んでるぞ、ジャン。くそ、ワインじゃなくて炭酸が欲しくなるな」
ルキーノのそのお世辞に、ほかの野郎どももそそくさと手を、アゴを動かす。
ジュリオは器用に細い竹のフォークで肉とサラダをくるくるまとめ、レディたちが見たら悲鳴を上げそうなほど大きく口を開け、大量の肉野菜をバクリと口に。
ベルナルドは脂のしみたサラダを少し口に入れて――数秒、ムグムグしてから、アタマの上に電球でもついたような顔になって細長い肉をパスタのようにかきこんでゆく。
イヴァンは薄く切ったパンに皿の料理の大半を乗せ、巻き込むように挟んで……俺がテーブルにおいておいたカットレモンに犬歯を見せて笑い、そいつをたっぷり絞って……アウン。
「……。前のと、少し味が――塩が効いていて、お酒が美味しいです、ジャンさん」
「たしかにこれはビールがほしいな。……さっきのボルドーはもう死んだか、どうする」
「ン、むん。……ハァあ。あー、やっとエンジンかかったぜ。ハハ!」
「しかしあれだな、ジャン。おまえ本当に、こういう手抜き――褒めてるからな? 料理を作らせると無駄に器用だな。感心するよ。この酢と、キャラウェイはいいな。ばんばんツバがわくぜ」
「うむ。グレゴレッティ幹部。今期のボーナスは期待してくれ給え。数字書くの俺じゃねえケド」
野郎どもの賞賛とひきかえに、俺はボウルの中の肉と野菜を全部配給。そして何度目かの空っぽにされたグラスをつまみ、ぐにゃりゆがんだルビー色の世界を見る。
「さて、次行こうか。二皿目と三皿目、いっしょにいくから酒はどうすべえ」
「そういえば、さっきからベルナルドが自慢したがっていたみたいだが」
「ああ。そうなんだが――」
ベルナルドは、持ち込んだトランクケースの置いてあるコート掛けのあたりをちらと見て、何かをあきらめてため息ひとつ。
「白状してしまおうか。赤の、いいものが手に入ったんだ。一席ぶってから自慢する予定が、まさか、シャンパーニュとボルドーの先客がいるとは思わなかった」
「――赤ぶどう酒か。まあ……。どうしましょう、ジャンさん。この料理が強いから、このまま赤でも……」
「んー。ディナーとかならそれでもいいんだが。お相手の料理が料理だからなー。どうすっかなー俺のお手製だからなー」
「問題ない。赤が続くと、せっかくのファンタスティカが寝ぼけるからな。次は別の酒でインターミッションといこうか」
「さすが豪腕のルキカッツォ。四天王らしいいい無茶ぶりだぜ」
俺はばんとテーブルに手をついて席を立ち、ワゴンにセットしてあったキラキラまっさらのお皿と、うっかり貝殻を真珠で作ってしまったような深皿を、五つ、そして五つ、全員の前にセット――野郎どもの期待やら満足やらの視線にケツのあたりをウズウズさせながら、俺は厨房にしつらえてあった鍋を運んでくる。
「ン。さわやかなトマトの香り。悲しいかな俺たちはイタ公だな。一秒でツバが湧いてきたよジャン」
上機嫌なベルナルドの声に俺はあひる口でウィンクを返す。そうして、でっかい木製のおたまで、オーブンの上でいい感じに保温されていた煮込みを深皿に盛ってやる。
牛のモツ肉、胃を刻んで、それを煮込んだおなじみの料理にコーサ・ノストラ、そしてマフィア、血統的にはイタリア男たちは指をそわそわさせていた。
「あ、これ……も、俺大好きです。これなら赤のままでもいいですね」
「ホウ、煮込みだな。こいつは……トリッパか。カーヴォロ、いい仕事だ」
「まためんどくさそうなモンつくったもんだな。まさか……この店の作りおきじゃあねえだっろうな、おい?」
俺は、トマトの赤みと脂でねっとりしたおたまで、カラになった銅のなべをコインと叩いて祝福。そわそわしているイヴァンと、マテをされてる野郎どもに一席ぶつ。
「イヴァン、半分あたり。ゆえに半分ハズレ。いやね、店の冷蔵庫に下ごしらえまで終わったいい感じのがあったんでねえ。ザクザク刻んでー。煮ようと思ったら。そうしたら奥さん、聞いてくださいよそりゃアンタが悪いよ」
俺はくるり厨房に取って返して、三皿目、四皿目の料理を運ぶ。
「いざ煮ようと思ったら、トマトの缶詰がなくってさー。仕方ないんで、店にあったカクテル用のトマトジュースで煮てやったわデュフフ」
「だからあのジジイのマネやめろ。背筋がぞわっとくるだろが、クソ……こんなの見つかったら――」
「ダイジョーブだって。終わったら来た時よりもきれいにして帰りますし」
「言ってるあいだにツマませてもらったが……。ウム、なるほどな。小一時間のあっさり煮込みで、肉はまだ固いが――このコリコリの歯ざわりが酒のツマミにはうれしいな」
「トマトジュースというのはいい作戦だね、ジャン。さわやかな酸味があって、チーズとよくからんでる。まずいな、ベルトの穴をひとつずらすハメになりそうだ」
俺は、全員に食え食えと手で合図をしながら、新手の料理を――
お次は大皿に盛った、ボイルしてから冷製にしたアスパラガス。
さらに、19世紀から脂と旨味を吸い続けている陶器の平鍋、そこにたっぷり作ったエビとキャベツのアヒージョ。
そして中盤戦のしんがりを務める、オーブンの中でスタンバっていた、いびつな形もご愛嬌のお手製ピザの大皿。
我ながら、運んでいるうちにツバが湧いてく野郎飲みメシをどかどかと運ぶ。
「ブラーヴォ。ブラーヴィア。こいつはすごい。ジャンが今日の昼からこのビアンカネーヴェに入っているとは聞いていたけど、こんなに」
「ウフフ。何を清貧ぶっているのかね智謀のベルナディーノ。まだ中盤よ。これ」
「……すごい、です。ジャンさん。お昼食べてこなくて、正解でした」
「褒め言葉だぞ? 見事に統一感のないテーブルだぜ。こうなると酒が……」
「ベルナルドの赤は、もうちっとハラふくれてからにしようぜ。というわけで、これこれ。そこなバーテンくん」
「うるせえな。ああ、来ると思ってたよ!」
「こういう飲みの席だからにぇ。あーくそ、ツバわいててかんだ。というわけだ――俺は濃い目のジンフィズをひとつたのむわ」
俺のオーダーに、イヴァンはファックなどお吐きになりながら袖まくりを直し、そそくさとカウンターの方へ。残りの野郎どもは、俺の蛮行におののき、
「ボルドーの後にジンフィズとは。カポの蛮勇には恐れ入るよ。じゃあ俺は……イヴァン、ミントジュレップをたのむ。ミントはエッセンスでいい、割りは水とソーダ半々で」
「こまけえよこの酔っぱらい! ルキーノとジュリオは?」
「俺はマンハッタンを頼む。ライ・ウィスキーでな。チェリーはなかったらいらないぞ」
「――俺は、ジャンさんと同じものを」
「クソ、波止場でウォッカ食らってる沖仲士どもが紳士に見えてきやがる。まってろ」
イヴァンはカウンターの後ろでゴソゴソと――そして、少しなにか考えてから冷蔵庫を開け、そこからラベルも何もないセクシーなボトルを出して、戻ってくる。
「氷セットして手ェ準備するのに時間がかかる。どうせお前ら待たすとブーブーいうだろ。ほれ、この店のハウスの白、スパークリングだ。これ飲んでいい子にしてろボケども」
「おおおー、さすが気が利くねえ疾風のイヴァンカント。あっ、疾風に深い意味は無いよ」
「うるせえな」
イヴァンは自分のトリッパの皿をカウンターにさらってゆく。残された俺たちのグラス、さっきのお宝グラスにベルナルドの手で無銘の発泡ワインが遠慮無く、ダバダバ注がれた。
「ああ、こんな気分のいい酒は久しぶりだよ、ジャン。ありがとうの言葉以外に見つからない俺の語彙をなじってくれ」
「なーにをおっしゃる。今日のオフを調整して、全員の予定のケツ持ちしてくれた幹部筆頭サマはもっとふんぞり返っていいんだぜ? 足とかモミましょうか、兄貴?」
「ブは、やめてくれ。懐かしいフレーズ過ぎてむせたじゃないか」
「……。うん、この白もなかなかだぞ。さすがビアンカネーヴェのハウスだ。銘なしでもこの切れ味、か。ワイナリーがどこだか知りたいな」
ルキーノの感嘆に、俺たちの手と唇も新しい酒に伸びる。ジャポーネのエンブレムの中で踊る透明な泡立ちは――口に運ぶとそこでおしゃまにパチパチ跳ねていたずらをしながら、若い酒らしく強い主張でパンを食べたい感じだった肉食の口を洗ってゆく。
「今日は元気だ酒がうまいぜ。あー、ルキーノ、構わねえよ。こっちも一本」
タバコをどうしようか迷っていたルキーノに俺は指をピコピコ動かし、火をつけたばかりの紙巻きを一本、テーブル越しにもらう。灰皿を出したベルナルドも、こちらをチラ見してから自前のシガリロに火をつける。
「ハハハ、場末の居酒屋で飲んでるみたいだよジャン。……こんなかんじはどれくらいぶりだろう。本当に気分がいい」
「そうだな……。しばらく、忙しいというか殺伐としていたからな――」
「それも、乗り切った――ジャンさんの、おかげです。これも、全部……」
「ナニ。諸君らが満足ならそれでいいことだ」
俺は、少しこそばゆいような感覚と……そして、流れ去った時間の中に置き去りにしてやり過ごした、毎度おなじみの危機と悪業を首筋のあたりで思い出す。
……今年は、いや、今回もやばかった。
……今年こそは、毎年襲ってくるピンチの波濤をしのぎきれないかと思っていた。
……だが――
蓋を開けてみたら、最悪のピンチは別のバッターにひどいボークをなげて、カタギさんという観客、そして司法という名の審判にやられて、このシャバから退場を食らっていた。
「……ラッキーなんだが。どうもこう、いまだにスコンと飲み込めねえなあ」
俺は、ふと……サラダのアスパラガスを取り分けようとしていた手とトングが止まってしまっていたのに、なにかブツブツ言っていたのに気づいて、アレっと目を動かす。
「どうした、ジャン? 塩と砂糖でもまちがえたか」
「――連合の、自滅……のことですか」
「ア、ウン。いやねえ。もう終わったハナシなんだけど、まだなんかスッキリしなくてねえ。すまんすまん、座が白けたな」
「構わないさ。あれが気になってるのは、俺も同じ……」
ベルナルドが、カラになっていたグラスに淡い金色のワインを注いでくれる。
「連合から離反した形のマルディーニ一家とその派閥が、突然……NY市警のガサをくらって、主力の大物幹部や顔役をごっそり裁判所送りにされた――」
「あれはビビったなあ。ぜったい、こっちに火が飛んでくると思ったもんな」
「――久々に、うちの兵隊全員に武器を配備しましたね、あのときは」
「そうそう。イヴァンなんて、NYに死ににいくつもりだったんだぜ。……あのバカ」
「これは俺たちの歴史に残るぞ。聖バレンタインデーの裏切り、とかいう見出しでな」
「市警だけの力で、あれだけのことは不可能……つまり――」
「……俺、というかうち、なんにもしてねえよなあ。してないよね?」
「ない」
「してないよ」
「してません」
「イヴァンにそういう腹芸出来る繊細さがあるとは思えねえし」
「……聞こえてるぞこのタコ! ほら、持ってくからその上空けろ!」
カウンターのほうでヤカンが沸いた罵声が響き、だがその声とは裏腹に銀のトレイに飲み物をたっぷり並べたバーテンダーのイヴァンが、凛としたスタイルで進んでくる。
「おかわりは全員のオーダーそろってからだかんな。いちいち立ってたらめしも食えねえぜ、ファック」
「サンキューありがとちゃん。ワオ、ちゃんとカットライムが入ってるし」
「この店でライムなんてひとったらしも入ってねえ緑のシロップなんか使ったら因業爺の車で形なくなるまで引きずられるわ。シュガーは上に振ってある、イッキするとただのジンソーダになっちまうかんな」
「ンモー。こういうところ芸コマでマメなんだから。惚れるわー」
「うっせ。……まあ俺は、今年は例のクソッタレたカード書きしなくてすんだからな。機嫌がいいんだ、ハハッ。今年だけだろうがな、クソ」
「サンキュ、イヴァン。いい色だ」
「やっぱりおまえバーテンの才能あるな。レディがときめくタイプの色気があるグラスだ。ほう、しかもチェリーはただの缶詰じゃないな、これは」
「そんな才能嬉しくねえ。ああ、そのサクランボはアレだ――ここのジジイが毎年、自分で漬けてるやつだからな。あんまり数使うとあとで小言食らうぞ」
「あー。いいないいにゃあ。イヴァン、後でそのチェリー皿に盛ってだしておくれ」
「てめーこのタコ、人の話聞く気ねえだろ」
「……ありがとう、イヴァン。カクテルなんて飲むのは、こういう場所ぐらいだからな……なんというか、新鮮だ」
「そーそう。ん、ン……。ぷは、おいしいワァ。イヴァンちゃん、黙っててもちゃんとビターズこっそり垂らしてくれたりするその芸コマなところがいい男だわー。なのになんでモテ……ああ、ごめん」
「最近慣れてきちまったけどさあ。でもいいかげんにしろこのタコ!」
そう言ってイヴァンは――酒のトレイをワゴンに放り、自分の酒のグラスを――よく冷えて指紋がぬるり残る霜降りのグラスを、タップリと注がれたスタウトビールのグラスをひっつかんでケツを下ろす。
「………………」
怒ってわめいて喉が渇いたのか、イヴァンの口が純白のクリームのような泡をぺろり垂らしているグラスに張り付き、磨いてない琥珀のようなビールをグイと喉と胃に流すのを見ていた、俺、そしてベルナルド、ルキーノ、ジュリオまでもが。
「ごめんイヴァン。それ、ビール人数分」
「オーダーそろってるからいいよな」
「だあああ! ああクソ、そんな予感してたよこのこっぱげども!」
イヴァンはぷりぷりしながらも、律儀にトレイを抱えてまたカウンターへ。しばらくすると、ビールタワーがポンプの圧力でたまらない炭酸のつぶやきを吐き出す音が聞こえてくる。
「フフ、なんというか……愉快だね、ジャン」
「わしもそーおもう。いやあ、先月のバレンタインのころはなー。下手すりゃそろって、今頃になってムショに逆戻りかと覚悟してたもんねえ」
「俺はジョバンニたちに幹部任命の支度をさせてたよ。まあ、それもおじゃんで――フハハ、あいつらほっとしてたよ。謙虚というか、なんというか。あの草食どもめ」
「だが蓋を開けたら、バレンタイン中止のお知らせ委員会はNYでパーティーをして。こっちは便所に隠れて震えてただけだったか」
「……あの時は、うちの組は――ジャンさんは、間違いなく、正しく判断をしたと思います。だから、こうやって……」
「まあねえ。……あー、この酒うめえ。――でも、うちが完全に無傷だったのは、たぶんもう少しすると厄介なことになるぜ、これ」
「――それは偶然、いえ、ジャンさんの幸運の……」
「ありがとうな。でもなあ……この偶然のカードは、まだめくられてねえ気がするんだわ」
俺は、行儀悪く指でグラスの中のライムを潰して……果汁がゆらり炭酸に絡んでいくのをぼんやり見つめ、ハラの中で重たく沈殿している言葉をつぶやく。
「俺一人ぐらいが、留置場行っておいたほうがよかったかもな」
「待ってくれ、ジャン――」
「もうよせよ、ジャン。どっちに札がめくれても――どうせ連合のメルダどもはこっちにツバはいてきたさ。おまえのせいじゃない」
「ん。……わかっちゃいるが――うちだけ、きれいに無傷だったのはなんか、変だよな。なんつーか。ハメられてんじゃねえかなあ、俺ら。俺……」
「それは……ないだろう。何者かが俺たちをはめる気なら、こんなゴキゲンじゃなく――今頃俺たちは留置場で便所の水すすってるはずだろ?」
ルキーノの声に、俺を励まそうとするような、何か説得するような声に、俺はだいぶ中身が少なくなったグラスを掲げる。
「ああ。すまん。……だめだだめだ、どうもへこんでいけねえ。おいちゃんも歳かねえ」
「そんな――気候の、季節の変わり目で体調がすぐれないのでは、ジャンさん」
「いやあ、もう中年だもんねえ。俺。……ワオ、そういやジュリオもか。うわ、なんかいまだに信じられねえ」
「フフ、俺はジャンが三十路というのがいまだにピンと来ないよ」
「いやーでも年波は打ち寄せますよ。例のバレンタインの時とかさー。忙しくてキリキリしててさー。気づいたら一週間くらい、朝勃起ンしねえときがあってさー。あん時はまじで、もう俺オワタ、ラッキードッグの伝説最終回かと思って」
「ガ、ハハ……! 馬鹿野郎、むせたじゃないか」
「ごめん、むせた? ンフッ、でもちゃんと復活したぜ。今朝とかちゃんと勃起しました。小便しづらくて」
「……ッ、それは……よかった、です」
「あーでもちんちん元気でも使うチャンスがないとねえ。生殖器じゃなくて泌尿器の札つけられて泣いてますし俺のちんちん」
そこに――さっきのフィルムを巻き戻して再生したようなスタイルのイヴァンが戻ってきて、人数分の霜降りビールグラスをテーブルに並べてゆく。
「いい歳こいた大人がちんちんとか勃起とか。もう酔ってんのかよ」
「正直すまん」
「ハハッ、なんだったら……このあと、飲みを切り上げて、だ! 俺のシマのレディたちにご挨拶でもしにいくか? 今日は雨だ、オンナどももヒマこいてうずいてるぜえ?」
「だったら俺の仕切りの店でいいだろう。どうする、ジャン?」
「……俺はまだ、空腹だな。もう少し食べておきたいです、ジャン……さん」
「たしかに――俺たちは全員、明日の昼まで完全にオフにしてあるが……。いきなりの場所替えだとまた連絡を入れないとだな」
急に、そわそわしだした男たち――
キャンプ三日目のボーイスカウトたちの車座の中で、いきなり妄想恋バナというか猥談がはじまった、その状況まんまのデキルマフィアスタイルの男たちを前に。
俺はなんだか、指差して大笑いしたくなるような気分で、
「ハハハッ、健全で実によろしい、諸君。まだオーブンの中にはメインの肉がスタンバってるし、酒も順番待ちしてるわけだが――俺は、構わんよ?」
「えっ……」
誰ともなく、声を漏らす。だが……誰一人、さあ行こうと席を立ったり、電話をかけに行ったりする気配もないまま――俺だけが動いて、透き通ったパンケーキといった感じのステキな色のビールがなみなみのグラスをひっつかむ。
「ず~っとここんとこ仕事仕事シゴトだったからねえ。まあ、さぞかし諸君も……」
グビ、と俺の喉がビールの冷たさと苦さ、甘さと旨さに音を鳴らし。
その音と、ひくついた俺の喉に野郎どもが注目したのがわかる。
「それはひょっとして、たまってる、ってやつなのかな?」
「べ、別に俺は……。ちゃんと、紳士としてのオフの時間はつかっている、よ」
「たしかに最近遊んでないが……。まあ、今日は飲みの気分だな、どちらかというと」
「――俺は、その。オーブンの中の、お肉料理が楽しみです」
「……なんだこのふんいき。俺のせいかよ、クソ」
急に。
さっきまで、エログラビア拾ったワルガキどものようだった男たちは、急に母親のベージュ色のシュミーズを見てしまった三十路男のようにぐんにゃりしていた。
俺は、愉快なこの夜の中で、一等にゴキゲンな笑いでハラをひくつかせる。
「なんだなんだ、おまいら。しょうがないにゃあ」
俺は、グイ、ぐいと数口でカラにしたビールグラスをゴンとテーブルに。その音でふにゃちんどもを注目させ、
「――わかった。忠誠心の鑑のような諸君だ。このちっちゃな可哀想な俺様が、昼から一人シコシコこさえてた料理放り出してまんこしに行くのには抵抗があろうね」
「い、いや、べつにそんなんじゃあ」
「遊びに行くんなら、それなりの服に着替えないとだからな……」
「まんことか言うなこのボケ。立ちんぼの小道にいくわけじゃねんだからよ」
「俺は、ここがいいです」
「まあ、ビールの泡が死ぬ前に飲み給え。――わかっとるわかっとる。俺はなんだかんだで狂気と暴虐のカポとしてのカオもあるからして。じゃあこうしよう」
俺は席を立ち――手にカラのグラスを持って、演説するように床を踏み進む。そして野郎どもの視線を集めてカウンターへ。キラキラ立ち並ぶビールタワーへ。
「この俺をだな。――……。ごめん、イヴァン。これうまく動かねえ。注いで」
「なにやってんだタコ。あーもう」
俺は、ビールを注いでくれるイヴァンの忠孝を背に、
「俺に気を使わないでいいようにしてやる。まずは――そのテーブルの上の皿を殺そうぜ。そんで飲んで、食って。飲んでーのんでー」
ブルースカイの節で歌っていった俺の前に、なみなみのビールグラス。
「あんがと。まーね、おいちゃんも今年で三十二ですし。たぶん、昔みたいに朝まで飲めないから。途中で潰れるから。そうしたらカンターレの第二階層でも、オキニのいる店でも、立ちんぼさんの小道でも好きなところに行ってよろしい」
「……つまりは、このまま飲もうと。かしこまりです。マイ・ロード」
「しかし、おまえが潰れたとしても……おまえ一人を残していけるわけ無いだろ」
「――その時は俺が付き添う。気にするな」
「……ああ、クソ、わかったよ! つーか、そろそろ俺にも飲み食いさせろ!」
そして――
俺が席に戻ると、野郎どもも座りの悪そうだったケツをもぞもぞ直し――飲みかけのグラスが並ぶ、じつに場末の居酒屋っぽい感じになってきたテーブルと向き合う。
「あー。ビールうめぇ。てか、ここのビールおいちいねえ」
「ちゃんとケグからポンプで上げてるからな。その辺の汚え工場の瓶詰めとは違うぜ」
「カクテルをもう1杯飲んだら、ベルナルド、おまえの赤を開けるか」
「頃合いかな。しかし……ジャン、このアスパラガスは上出来だね」
「おう。コロニアル・インで食ったときの味を思い出しながらマネてみた。コショウとマスタードに酢と油、そこに塩。ポイントはコショウとマスタードは粒をひいたやつで」
「……このエビ、アヒージョおいしいです。キャベツが、食欲、出ます」
「おう。最初にこの店の爺特製アンチョビを油煮にしてな。うま味でたらアンチョビは上げて、そっちのピザに乗せてーの」
「いや、捨てろよ。再利用してんなよ」
「そんなことしたらバチあたりますし。んで、味のついた煮え油に、エビとキャベツ突っ込んであとは余熱でおk。冷めた頃にはぷりぷり食べごろって寸法よ」
「プロディジョーゾ。本当にジャン、おまえこういう小手先やらせたら器用だな」
「まかせろ。この指は女の子イかせるより鍵開けとかエビのワタむきのほうが上手ですし。ガックシ。死ぬか」
「死なないでください、ジャンさん」
「おうジュリオ、いい飲みっぷりだな。カクテルのおかわり行くかー」
「うん。このピザ……見た目は空から見たマンハッタンだが――いいじゃないか。この香ばしい感じ、驚いたよ」
「ああ、この店のジジイの自慢、薪使うオーブンでやったからな。やっぱ炭とか熾き火であぶるとなんでもうまいねえ。焦げねえようにしょっちゅう見ないとだめだけど」
「さっきいきなり、もうチーズが出た時は小言が出そうになったが。こいつはイケてるな。この甘いマスカルポーネに、こいつはホースラディッシュか。スティルトンと缶詰の桃は予想がついたが――これは負けたな」
「あー、それね。あれよあれ。あーなんだっけ。そう、あのイケメンじじい、市長閣下のところのパーティーで食ってさー。うまかったんで真似してみた。褒めれ」
「ハハハ、ジャンにこういう料理の才覚があるのは知っていたが――今日は驚きだよ。こんなレシピ、いつのまに用意していたんだい?」
「あー。それね。いやね。先月さー、連合の理事共に呼び出されて一週間軟禁食らったのあったやん。あったんだわ。そんときにさ、クソくだらねえ会議のあいだ、居眠りするわけにいかねえじゃん?」
「ほうほう」
「だからね、一日中ずっと料理のこと考えてやった。その末路がこれです」
「なにキリッってしてやがんだ、このボケ。あんときこっちも大変だったんだからなあ」
「イヴァン。おかわりを頼む。……そうだな、トム・コリンズにするか」
「俺も同じものにするか。イヴァンも労ってやらないと」
「あほか! おんなじの二杯も別々の二杯もたいしてかわらねえよ! たまにゃ自分で作れ!」
「でもー。この店で、イヴァン以外がグラスとか氷とか触ると、あの因業爺が怖い顔しますし。あー、おれ、ブランデーサワーにするほ」
「おい、おめえけっこう回ってねえか? ああクソ、ジュリオも同じだな?」
「頼む。割りはさっきのハウスでいいが、ブランデーはアルマニャックで頼む。あ、ジャンさんもそれでいいですか」
「よいよい。もう酒だったら、小便通りの屋台のエンコビールでもいいわん」
「……? なんですか、それ」
「あー。そりゃジュリオは知らないよにゃあ。よし、お勉強すっか――エンコビールってのはな、ああいうダウンタウンっつーかスラムっーか。あのあたりの飲み屋でさ、ビール頼むじゃないですか。でるじゃないですか。酔っ払ってくると残りが出るじゃないですか」
「おいおい、あんまり聞きたくない流れのハナシだな。トイレ行ってくるか」
「グラスと便器の中間管理職、おつかれちゃん。で、で。ビールのそのお残りを集めて瓶に入れて、そいつを出すのがエンコビールなんだわ。普通のビールがいっぱい5セント、エンコだといっぱい2セント。エンコは泡が立たねえんで重曹入れたりするんで、飲むとすっぺえしなんか吸い殻の味がするし、臭いは金属っていうかおやじの口臭っぽいし。ひどいもんでしたよ」
「……。じゃ、ジャンさん、それを……のんで、いたのですか」
「いやあ、さすがに最初の数回でやめたよ。まーね、でもアレ飲むとね。カネの有り難みが身にしみるっていうか、お仕事頑張ろうかっていう気分になるよね」
「万物には意義がある、というやつだね。ジャン、アヒージョの具が全滅したよ」
「おう。待ってろパン切ってくる。この油をだぶだぶつけて食うと、うまいゾ」
「本部の主治医がみたら青筋たてて怒りそうだな、カーヴォロ。最高だ」
「まかせろ。ハハーハ、今宵はおまいら全員に、明日になったら年甲斐もなくニキビが出来る呪いをかけた。さて、次の皿いくか」
「おいめんどくせーから、割りのハウスワイン、瓶ごと持ってっとけよ。てか便所行くなら行けよ! 俺先行っちまうぞ」
……。ああ、だいぶ飲んだな。まだメシは食えるけど、酒は少しブレーキかけるか。
「ああ、カッツォ。煙草が吸いたいが――先に、ベルナルドご自慢の赤を殺すとするか」
「お気遣い悼みいるよ。じゃあもう、開けていいかい」
「あー、まて。このビール殺しとく。……ン、んあ。……ぷしゅー。あーへんなゲップ出た」
「――その赤、まだボトルが新しいな。その形、ブルゴーニュか」
「ご名答。ラベルを見るかね? おなじみの銘酒、ロマネ・コンティさ」
「おお。なんか俺でも聞き覚えのある名前が来ましたよ」
「パーティやらの自慢でおなじみだろう? といっても……くそ、まだ新しいからコルクが半端に開けづらい。――えぇと、1935…何年前だ?に投機目的で買ったものだからたいしたことないけどね。せっかくだから今日一本持ってきた」
「ピチピチじゃないですか。まだ3年も寝てないロマネ開けるとか、なんか犯罪的で勃起するわいステキ」
「――だったらデキャンタージュもしなくていいな」
「ああ。このまま行こう。マリアージュにふさわしい料理は……フハハ、まあ略奪婚ということで」
「グラスどうする、新しいの出すか?」
「あー。おれ、これでいいよ。さっきのハウス飲んだやつ」
「フランス人には見せられないな。では、われらがカポ、一献、さあ」
「ちょっとぬるくねえか? 氷入れるか、ちょっとまってろ」
「おおお。さすがにいい色。うほ、いいニオイ」
「ウィスキーの原酒を飲むようなもんだな。色も香りも強すぎる。コイツを……そうだな、20年か、いや、もっと寝かせると……。うん、色は透き通った夕日色になって。どんどん艶が出て透き通り……尖っていた香りは、処女のまま躾のすんだレディのように全てをわきまえて、眼差しだけで男を蕩かし……唇に触れると、逃げるようで、こちらが追ってむさぼりたくなるような……」
「酔ってるのかルキーノ」
「いいねいいねえ。盛り上がってきたねえ」
「――さすがロマネだ。さすがベルナルド。この年、35年は伝説になるぞ」
「ああ。まかせろ。俺もそう思う。フハハ、できることなら……この酒を50、いや、百年の孤独の中に葬ってから――ジャン、おまえたちとまた味わってみたい。よ」
「ステキねえ。惚れちゃうわー。でも50年でもちっときびしそうじゃね?」
「……まったくだ。ああ、この酒の瓶一本におとる寿命のこの身体、この生命。せめて今宵は――旨酒と、ああ、そうだ。この店、蓄音機あっただろう。かけようぜ」
「大丈夫かよ、ルキーノ。頼むからレコード落っことすなよ?」
「あー、いまの赤うまかったわぁ。ベルナルド、褒めてつかわす。まじ。あんがとね」
「その言葉だけでも身に余る光栄。未来の、この瓶に何十万ドルも払う成金どもにしてやったりという気分にもなれたし、ああ、本当に今夜は気分がええよ。ちょっとトイレ」
「おー。めずらしい、ベルナルドが噛んでるら。……クソ俺もか。あ、ピザもぃっこ、くってもいいけ?」
「あ、どうぞ。俺は、この油つけたパンが……おいしい、です」
「ファック、俺はアスパラガス食い過ぎだ。明日ションベンが臭いぜこりゃ」
「なんだかんだで、あんだけあった料理がほとんど死んだか。俺たちの胃袋もまだまだいけるな、ハハッ。……。ん? おい、ジャン、どうした」
「――……」
「なに、ピザの切れっ端にガン飛ばしてやがんだよ……吐くなら便所行けよ?」
「あ、あの。ジャンさん」
「……このピザ」
「えっ」
「……このピザに乗っかってる、いわし。アンチョビ――」
「それがどうしたよ。ああ、じじいのお手製だから、アタマもハラもとってねえんだよな。苦味が出るのに、コイツが本物だから、ってなあ。これだから19世紀は。……って、ジャン、おい?」
「――ドッキング・いわし!! ホレ、見れ、口のところで二匹くっついてる」
「……あほか。なにかと思ったら」
「くだらねえ。小便してこよ」
「……キス、したくなっっちゃった、んです……ね……」
「ん? なんだい、この。手洗いから戻ったらテーブルに漂う微妙な空気は」
「ベルナルド、このピザ食い給え。さっきトイレ出るときに手を洗ったかどうか覚えていないカポの指紋付きである」
「あ…………」
「なんてこった。我らがカポがこんな残虐行為を働く暴君だったとは。ノ、とは言えるはずもない」
「それはいいから。ジャン、そろそろメインの肉を所望していいかな」
「……。お。まかせなさい。ちょーっと、まってな。あ、イヴァン。暖炉の熾き火、ちっと運んでくんない?」
「あ、俺がやります。イヴァン、酒が切れた。次は……ビアンカネーヴェはカルヴァドスの樽があっただろう、あれをデキャンタしてくれ。それと割りの氷と水を」
「気軽に言ってくれるな、このガチ童貞が! あれ、地下だったかなあ、樽……」
……。あれっ。いま、俺寝てたかな。一瞬、ここがどこだかわからなかった。
「おお、これはこれは。堂々とした隠し球だな、ジャン」
「うん。思ってたより上手く行ったわー。いやあ、メイドさんの……あれ、なんつったっけ、あのルキーノよりでかそうなクロちゃんの」
「サマンサばあさんかい?」
「それそれ。あのばーちゃんの、天下一品のマッシュポテトがあったんで助かった」
「なるほど、ミートローフ、もとい。ポルペットーネをマッシュポテトで包んで、オーブンで焼くとは。最初はケーキが出てきたのかと思ったよ」
「ワンダーは全ての悦楽のスパイスだな。メシ、酒、セックス……」
「それ、最後のはあんまりびっくりすると裏返りますし。……んー、薪と熾き火使うオーブン、初めて使ったけど……うまくいったぜ、ハハ」
「うん……。味も――これなら本部の食堂で客に出せるよ、ジャン。肉に和えたソースも、包んだポテトの焦げ目とチーズの風味、中身のゆでたまご。完璧だ」
「いやー、うれしいねえ。カポ、褒められて伸びるタイプですし。もっと」
「グラスが空いてるぜ、ジャン。カルヴァドスのおかわりで?」
「うに。氷少なめで。チョーっと、味濃かったな。喉かわくよね、これ」
「さっきのサラダがもう少しあったら天国だったなあ」
「おう、だったら店の果物切ってくるか。冷蔵庫に色々あったろ」
「……。この肉も、すごくおいしいです。……あと、こっちのブルスケッタ、いくらでも食べられそうです」
「ああ、これもうまいぜ、ジャン。半熟のスクランブルエッグに何が乗ってるかと思ったら、これトリの砂肝のきざんだやつとたまねぎか。ガキの頃思い出して泣けてくる」
「あー、ごめん、それ一人5つまでなんだわ。あー、でもおいちゃん、そろそろパンパンだから。俺のぶんも食っていいにょわ」
「さっきからかみ過ぎじゃないか、ジャン? 大丈夫か、少し休めよ。明日、口内炎になるぞ」
「いや、いま噛んだらその痛みで目が覚めた。奥歯で思いっきり噛んだ。なんか加速しそう」
「そうえば……。イヴァン、地下の酒棚にシャンパンがあったんだって?」
「ああ、さすがにソイツは、金払わねえで取ってくるのはまずいぜ」
「ドンペリの気分じゃねえなあ。あー、このりんご味の酒、まじうまいわ」
「そうそう、ドンペリといえば――諸君、古い話を蒸し返すが」
「アレッサンドロ親父かな?」
「ご名答。なんでドンペリであの人の顔が出てくるのか、ふしぎだね」
「風評被害だぜ、ハハッ」
「――さっき、諸君たちが話していたセカンド童貞がどうのって会話、あれ、電話の向こうのアレッサンドロ顧問に全部聞こえていたよ。ご立腹のご様子だった」
「カッツォ。イヴァン、おまえ声デカイんだよ」
「俺かよ!? えっ、おれ?」
「まったく、年よりは自分の悪口には耳ざといにゃあ。で、おやじ……あんだって?」
「お戻りになったら、俺たち全員叱責の上、減俸だそうだ」
「組からお小遣いもらってる無職セカンド童貞がなんか言ってるな」
「その前に、明日、接待先のNY競馬場で大穴を当ててくるそうだ」
「へー」
「……ああ、たしか、捜査局のボスが仕切っている、あの――」
「そう。接待は現時点では大成功。だが、ここでうちの親父が大穴当てると……捜査局のやんごとないお方の機嫌が悪くなる。困ったところだ」
「ウフフ。接待の成功に、かんぱーい」
「……ですよね。サルート」
「親父殿は、ビッグマネーつかんで俺たちの足元に叩きつけてやると息巻いてらっしゃった」
「親父が俺たちの足元にたたきつけるのは飲み屋のツケくらいだろ」
「しっかし、あのゴリラも枯れねえよな。ここのジジイといい、ほんと19世紀生まれは。ああクソ、俺たちもあれくらいタフなジジイにならねえとな。カネ稼いでもよぼよぼじゃ甲斐がないぜ」
「そうねー。やっぱシャッキリポンじゃないとねー」
「顧問は、その……あのお年で、その。毎朝、その、だそうです。この前自慢されました」
「……えー。でも、勃つうちは大丈夫とかおコキになりましてもー。タっていっても勢いってものがありますでしょうに。さすがに14歳の朝ってわけにはいくめえ」
「わからんぞ、19世紀だからな……」
「そういえば――ジャン、ほら。NYのカポ、うちの同盟のドン・ロッコ。いただろう」
「ああ、あの孫ぐらいのギャルと出来婚した。親父が嫉妬で借金踏み倒した、あの」
「あそこ、二人目生まれたらしいね。そろそろ、正式にカードでお知らせがあるよ」
「ふえええ。あのエロゴリラが戻ったらカード見せてやろっと」
「デキた、といえば――うちにとってはもう少し重要な、そしてラッキーなデキちゃった情報もあるよ。ツマミに一席いかが?」
「俺の泌尿器が聞きたくねえ、ってシーツかぶってますが。聞こうか」
「フェデリ一家のところ、去年、正式に例の石油会社のお嬢さんを嫁にもらっただろ」
「ああ、たしかステファンとか言うやさ男の跡取りか。あいつ、ぼんぼんだろ。ヤクザ稼業大丈夫かよ、なあ」
「嫁がしっかりしてるし、両家とも金持ちだからだいじょうぶだろ」
「そう。その嫁さんが――早速におめでただそうだ」
「はええな!おい! くそ、ねたましいわあ。こっちがせんずりこくヒマもなかったのに」
「彼らのキューピッド役をやってのけたカポの心の叫び、確かに聞きましたよ」
「……そちらも、きっちりとお祝いをする必要がありますね」
「ま~そりゃ生まれてからのほうがいいんじゃね? あ、ベルナルドメモってあるよな」
「おまかせあれ。そっちは俺のほうで――――」
「……」
「ジャンさん、その……ねむいのですか?」
「いや、全然。いやー、気分よくってね。ポワーンって、浸っちゃってたわ」
「いいことだ。最近、飲んでなかったからな。たまにはハメのひとつもはずさないと」
「ジャン、おまえあんまり寝てないだろ。無理すんなよ。あとのツマミは俺が出すぜ」
「マジか。さんきゅーイヴァン」
……。ああ、みんな笑ってるなあ。よかった、今日の宴会は成功だ。
……。結構みんな酔ってるな。
……。イヴァンが、ジュリオにオンナの口説き方をこんこんと説いている。
……。ジュリオは、ああ、聞いてるふりして、ナプキンでなんかトリをつくってる。
……。ベルナルドはトイレから戻ってきた。まだ足はふらついてない。大丈夫。
……。ルキーノは、また同じレコード掛けてら。これ二回目だぜ。酔ってるな。
「……。ヴェスプッチ殿がお戻りになるのは――明日の、朝だったか?」
「どうだかな。フィラデルフィアまで車転がして行ってやがるから。そうあっさりは帰ってこれねえと思うぜ」
「――しかし、よくあの方が、この店を使わせてくれたな」
「俺の信用ってやつだ。ありがたく思えよマジで。本部じゃ、こんな羽目の外し方デキねえぞ」
「まったくだ。ヴェスプッチ殿と、自滅したマルディーニの野郎に乾杯だ」
「あのジジイは、向こうで古いダチ、っていうかおんなじくらいの車キチガイと会って、そんで百発百中、バトってるからな。負けたら飲みに付き合わされてしばらく戻らねえ」
「勝ったら勝ったで、祝杯を上げてしばらくお戻りにならない、という寸法かい」
「そういうこった。それでも、明日の朝には片付けるからな? お前らも掃除しろよ!」
「――……。あの。ジャンさん……?」
「ん。大丈夫よ。聞いてるきーてる。寝てへんよ」
「悪酔いしてる感じじゃなさそうだが……。少し休もうか、ジャン。甘いものと、コーヒーでもどうだい?」
「いいねえ。いいねえ。じゃあ……カポ、カプチーノにバニラアイスぶっこんだアレ、あれが食べたいかな。な」
「アフォガードですか。いいですね」
「おまかせあれ。イヴァン、アイスクリームを出してくれ。コーヒーはこっちでやろう」
「エスプレッソマシンの使い方わかるか? あー、面倒だ、代われ代われ」
「アイスもいいが、なあイヴァン。さっきの、カクテルに使ったチェリーの漬けたのを出さないか? あれはそんな甘くないし、ジャンもそういうもの食べればすっきりするだろ」
「いいよにぇ。アイスとチェリー。いわゆる別腹が鳴るぜ」
「あー! いっぺんに出来るかよ! 待ってろクソ、酔っぱらいどもが…………」